田部井さんの闘病生活は、2007年の乳がんから始まりました。その後、腹膜がん、転移性脳腫瘍と複数の病気を経験しています。
特に注目されるのは、治療を受けながらも登山活動を続けていたことです。
2007年:初期の乳がんが見つかる2007年、田部井さんは初期の乳がんと診断されました。
婦人公論.jpが2025年に掲載した本人のエッセイによると、乳がんに対して乳房温存手術と放射線治療を受けています。
その後、乳がんの治療を終え、登山や講演などの活動を続けました。
2012年:腹膜がんが判明し、余命3か月の宣告大きな転機となったのが2012年です。
同年2月中旬ごろから、お腹にチクチクする痛みを感じ、食欲も低下しました。当初は腸の不調を疑っていましたが、検査を進めた結果、同年3月にがん性腹膜炎と診断されます。
2025年の週刊女性PRIMEによる再掲載記事では、診察時にステージ3Cと説明され、5年生存率についても厳しい見通しを告げられたことが紹介されています。
最初の病院では余命3か月とも告げられました。
しかし、田部井さんは治療を選択します。抗がん剤治療と手術を受け、いったん病状が落ち着きました。
治療の過程では手足のしびれや倦怠感に苦しみましたが、回復後も登山への意欲を失いませんでした。
2014年:転移性脳腫瘍が見つかり手術2014年には、新たに脳腫瘍が見つかりました。
日刊スポーツの2016年10月23日の訃報では、田部井さんが2年前に脳腫瘍の手術を受けていたことが報じられています。
また、文春写真館の追悼記事では、2014年に転移性脳腫瘍を患ったことが紹介されています。
乳がんと腹膜がんに加えて脳腫瘍まで経験したことは、田部井さんの闘病生活がいかに長く、複雑なものだったかを物語っています。
2014年以降:腹膜がんの再発と療養生活腹膜がんは一度治療を終えた後、再発が判明しました。
2025年11月の週刊女性PRIMEの記事では、脳腫瘍を患った後に腹膜がんが再発し、療養を続けていた経緯が紹介されています。
晩年には本人の希望で緩和ケアに移り、家族と過ごす時間もありました。
2016年10月20日:77歳で逝去そして2016年10月20日午前10時、埼玉県内の病院で息を引き取りました。
死因は腹膜がん。享年77歳でした。
田部井さんの闘病歴を整理すると、次のようになります。
| 時期 | 病気・出来事 | 治療・経過 |
|---|---|---|
| 2007年 | 初期の乳がん | 乳房温存手術・放射線治療 |
| 2012年3月 | がん性腹膜炎 | 抗がん剤治療・手術を受ける |
| 2013年 | 腹膜がんの治療後 | 闘病体験を著書で公表 |
| 2014年 | 転移性脳腫瘍 | 手術を受ける |
| 2014年以降 | 腹膜がんの再発 | 療養しながら活動を継続 |
| 2016年7月 | 最後の富士登山 | 元祖7合目まで登る |
| 2016年10月20日 | 腹膜がんで逝去 | 享年77歳 |
参考:田部井淳子基金公式プロフィール、日刊スポーツ、週刊女性PRIME、婦人公論.jp、文春写真館。
なお、2007年の乳がんが2012年の腹膜がんに直接転移したという因果関係については、公開された資料だけでは断定できません。病歴を一括して「乳がんの再発」と説明するのは正確ではありません。
【闘病中も登山を続けた理由】夫・田部井政伸さんの支えと日常生活

田部井さんの闘病生活を語るうえで欠かせない人物が、夫の田部井政伸さんです。
2人は山を通じて知り合い、1967年に結婚しました。政伸さん自身も登山経験が豊富で、妻の海外遠征や国内登山を長年支えてきました。
抗がん剤治療の副作用と向き合った日々2012年に腹膜がんと診断された田部井さんは、抗がん剤治療による手足のしびれや倦怠感に悩まされました。
週刊女性PRIMEの2014年当時の記事によると、自宅の階段を上ることも難しく、足を手で持ち上げながら移動するほどだったといいます。
それでも、退院後は少しずつ歩くことから始めました。
近所の公園を歩き、退院から9日後には埼玉県飯能市の日和田山にも登っています。
抗がん剤の点滴を受ける合間にも、自然の中で過ごす時間を大切にしていました。
夫の政伸さんが担ったサポート政伸さんは、田部井さんが治療を続けながら生活できるよう、さまざまな面で支えました。
特に印象的なのが、車での移動に関する工夫です。
車の後部座席を倒し、マットや布団を敷いて簡易ベッドを用意。病院への通院だけでなく、登山や講演、取材の現場にも移動しやすいようにしました。
また、手足のしびれが強い時期には、料理や家事も引き受けていました。
2025年に婦人公論.jpが本人の著書から再編集して掲載したエッセイでも、抗がん剤治療中に夫が料理、掃除、洗濯などを担ったことが語られています。
田部井さんが登山家として活動を続けられた背景には、本人の意志だけでなく、こうした家族の協力がありました。
病気になっても登山を手放さなかった田部井さんにとって登山は、単なる競技や記録への挑戦ではありませんでした。
自然の中を歩くこと自体が、日々の楽しみであり、生きがいでもあったのです。
2014年のインタビューや闘病記録では、体調に合わせて歩く距離やペースを調整しながら山に出かけていた様子が紹介されています。
ただし、これは田部井さん自身の選択と経験です。病気の治療中に登山をすることを一般的に勧めるものではありません。
彼女の生き方で注目したいのは、病気によって人生のすべてを病気中心に変えるのではなく、自分が大切にしてきたものを可能な範囲で守ろうとした姿勢です。
【生涯最後の登山は富士山】東北の高校生と目指した2016年7月の挑戦
田部井さんの生涯最後の登山は、2016年7月の富士山でした。
この登山は、自身の記録を更新するための挑戦ではありません。東日本大震災で被災した東北の高校生たちを励ますための活動でした。
東北の高校生の富士登山プロジェクトとは?東日本大震災後、福島県出身の田部井さんは、被災地の人々を登山を通じて応援する活動を始めました。
その代表的な取り組みが、2012年に始まった「東北の高校生の富士登山」です。
東北の高校生たちに富士山登頂という目標を持ってもらい、挑戦する経験や達成感を得てもらうことを目指したプロジェクトでした。
田部井さんは、東北の高校生1000人を富士山に連れて行くという目標を掲げていました。
この活動は、本人が登頂することだけが目的ではありません。参加する高校生たちが自分の足で山頂を目指すことに大きな意味がありました。
2016年7月、元祖7合目まで登った最後の挑戦2016年7月、田部井さんは病気療養中でありながら、プロジェクトの総隊長として富士登山に参加しました。
しかし、体力は以前のようには戻っていませんでした。
夫の政伸さんや家族の証言を紹介した2023年の富士山世界遺産国民会議のインタビューによると、田部井さんは夫に支えられながら登り、標高3010メートルの元祖7合目まで到達しました。
そこから先は高校生たちに託し、自身は下山することになりました。
当時の政伸さんは、最後の登山について次のように振り返っています。
「エベレストとどっちが大変?」と聞いたら「こっちが大変。エベレストは酸素があれば登れるから」
この言葉からも、最後の富士登山が田部井さんにとってどれほど大変な挑戦だったかが伝わってきます。
最後まで高校生たちを応援した田部井さんは自分が山頂に到達できなくても、高校生たちが登頂を目指す姿を見届けました。
このとき、長男の田部井進也さんにプロジェクトを託したことも、後の活動につながっています。
2016年11月1日、田部井淳子基金の公式発表では、本人が亡くなった後もプロジェクトを継続することが表明されました。
また、2017年には長男の進也さんが代表理事を務める一般社団法人田部井淳子基金が設立され、母の遺志を引き継ぐ体制が整いました。
最後の登山は、自分自身のためではなく、次の世代に挑戦する機会を残すための登山だったのです。
【田部井淳子の生涯と功績】エベレスト女性初登頂から七大陸最高峰制覇まで
田部井さんの死因に関心を持つ人の多くは、彼女がどのような人物だったのかも知りたいのと考えられます。
田部井さんは、単にエベレストに登った登山家ではありません。女性が海外の高峰に挑戦することが現在より難しかった時代に、女性登山者の可能性を切り開いた人物でした。
田部井淳子の公式プロフィール一般社団法人田部井淳子基金が公表しているプロフィールを中心に整理します。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 田部井淳子(たべい・じゅんこ) |
| 生年月日 | 1939年9月22日 |
| 出身地 | 福島県三春町 |
| 出身大学 | 昭和女子大学 |
| 結婚 | 1967年、田部井政伸さんと結婚 |
| 1969年 | 女子登攀クラブを設立 |
| 1975年 | 女性として世界初のエベレスト登頂 |
| 1992年 | 女性として世界初の七大陸最高峰登頂 |
| 2000年 | 九州大学大学院修士課程修了 |
| 2016年10月20日 | 腹膜がんのため77歳で逝去 |
田部井さんの最大の功績は、1975年5月に女性として世界で初めてエベレスト登頂を成功させたことです。
当時35歳だった田部井さんは、エベレスト日本女子登山隊の副隊長兼登攀隊長として遠征に参加しました。
エベレストの標高は8848メートル。世界最高峰への挑戦は、現在以上に装備や情報が限られていた時代の大きな冒険でした。
しかも、女性だけの登山隊を組織すること自体が簡単ではありませんでした。
1969年には「女子だけで海外遠征を」という目標を掲げて女子登攀クラブを設立。女性登山家が自分たちの力で海外遠征に挑戦する道を切り開きました。
1992年:七大陸最高峰を女性として世界初制覇1975年のエベレスト登頂で世界的に知られるようになった後も、田部井さんは挑戦を続けました。
1992年には、女性として世界で初めて七大陸最高峰すべてへの登頂を達成しました。
七大陸最高峰とは、各大陸を代表する最高峰のことです。
この記録によって、田部井さんは世界的な登山家として確固たる評価を得ました。
加えて、公式プロフィールによると、生涯で76か国の最高峰・最高地点に登頂しています。
登山だけではない環境保護活動田部井さんは、山を登るだけでなく、山を守る活動にも力を注いでいました。
1990年に設立された日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(HAT-J)では代表を務め、2014年まで山岳環境保護の啓発に取り組みました。
また、2000年には九州大学大学院の修士課程を修了しています。研究テーマはエベレストのごみ問題でした。
登山者が増えることで山岳環境にどのような影響が出るのかを考え、登山文化と自然保護の両立を目指していたのです。
このように、田部井さんの功績は登頂記録だけでは語り尽くせません。
【2026年は没後10年】田部井淳子さんが残した遺志と現在
2026年10月20日は、田部井さんが亡くなってから10年となる節目の日でした。
没後10年を迎えた現在も、彼女が残した登山の功績や社会活動は受け継がれています。
東北の高校生の富士登山は現在も続く田部井さんが生前に掲げた「東北の高校生1000人を富士山に連れて行く」という目標は、亡くなった後も引き継がれました。
夫の政伸さんや長男の進也さんらが活動を支え、参加する高校生たちに登山の機会を提供しています。
富士山世界遺産国民会議が掲載した政伸さんへのインタビューでは、2022年にも30人の高校生が富士山頂に到達したことが紹介されています。
また、2020年には新型コロナウイルスの影響で活動を中止したものの、2021年には感染対策を行って再開しました。
このプロジェクトは、田部井さんの登山家としての実績を記念するだけのものではありません。震災を経験した地域の若者が、自分の力で目標に挑戦する機会を残す活動です。
2025年には故郷・福島県三春町に記念館が開設田部井さんの故郷である福島県三春町では、2025年春に田部井淳子記念館が開設されました。
講談社コクリコの2025年6月の記事でも紹介されており、エベレスト女性初登頂から50年という節目に、改めてその足跡を振り返る機会となりました。
また、2025年10月31日には、田部井さんの生涯をモデルにした映画『てっぺんの向こうにあなたがいる』が公開されました。
吉永小百合さんとのんさんが主人公を演じ、阪本順治監督がメガホンを取りました。
映画をきっかけに、登山家としての偉業だけでなく、妻として、母として、病気と向き合った一人の女性としての人生にも関心が集まりました。
なお、映画は実在の人物をモデルにした作品であり、劇中の人物名や描写をそのまま史実と混同しないことも大切です。
田部井淳子さんの著書から伝わる生き方田部井さんの闘病や登山への思いを知るには、本人の著書も重要な資料です。
特に注目したいのは、次の3冊です。
- 『それでもわたしは山に登る』(文藝春秋):2012年の腹膜がんの闘病と、治療中も山へ向かった日々を知ることができる一冊。
- 『再発!それでもわたしは山に登る』(文藝春秋):晩年の病気との向き合い方や、登山への思いを記録した作品。
- 『てっぺん 我が妻・田部井淳子の生き方』(田部井政伸著・宝島社):夫の視点から田部井さんの人生や夫婦の歩みを振り返る一冊。
特に『再発!それでもわたしは山に登る』は、2016年10月に亡くなるまで書き続けていた原稿をもとに、同年12月に出版されました。
国立国会図書館の書誌情報にも記録されており、闘病の記録を本人の言葉でたどることができます。
【田部井淳子の死因】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:田部井淳子さんの死因は何ですか?
A1:腹膜がんです。2016年10月20日午前10時、埼玉県内の病院で亡くなりました。享年77歳でした。
Q2:田部井淳子さんは何歳で乳がんになりましたか?
A2:2007年、67歳のときに初期の乳がんが見つかりました。乳房温存手術と放射線治療を受けています。
Q3:田部井淳子さんは脳腫瘍も患っていたのですか?
A3:はい。2014年に転移性脳腫瘍が見つかり、手術を受けたことが報道されています。
Q4:田部井淳子さんの最後の登山はどこですか?
A4:2016年7月の富士山です。「東北の高校生の富士登山」プロジェクトに参加し、標高3010メートルの元祖7合目まで登りました。
Q5:田部井淳子さんの夫は誰ですか?
A5:田部井政伸さんです。登山を通じて知り合い、1967年に結婚しました。闘病中も移動や家事などを支え、亡くなった後も東北の高校生の富士登山プロジェクトを支援しています。
Q6:2026年は田部井淳子さんの何回目の命日ですか?
A6:2026年10月20日は、2016年10月20日の逝去から10年となる、没後10年の命日です。
Q7:田部井淳子さんはエベレストに何歳で登頂しましたか?
A7:1975年、35歳のときです。女性として世界で初めてエベレスト登頂を成し遂げました。また、1992年には女性として世界初の七大陸最高峰制覇も達成しています。
田部井淳子さんの死因は、腹膜がんでした。2016年10月20日、77歳で亡くなっています。
その生涯を振り返ると、2007年の乳がん、2012年のがん性腹膜炎、2014年の転移性脳腫瘍と、幾度も病気と向き合ってきたことが分かります。
それでも田部井さんは登山への情熱を失いませんでした。夫の政伸さんに支えられながら治療を続け、2016年7月には東北の高校生たちと富士山に登りました。
女性として世界初のエベレスト登頂、七大陸最高峰制覇という偉業も、もちろん忘れてはなりません。
しかし、彼女が後世に残したものは登頂記録だけではありません。
病気と向き合いながら自分の好きなことを大切にした姿勢、山岳環境を守る活動、そして東北の高校生たちに挑戦する機会を届けようとした思いです。
2026年、没後10年を迎えた田部井淳子さん。最後に登った富士山で高校生たちに託した思いは、今も次の世代へと引き継がれています。
その人生を知ることは、一人の偉大な登山家の記録を振り返るだけでなく、困難に直面したときに何を大切にして生きるのかを考える機会にもなります。