俳優・山田裕貴さんのお父さんは、元プロ野球選手の山田和利(やまだ・かずとし)さんです。中日ドラゴンズや広島東洋カープで内野手として活躍し、現役引退後も両球団でコーチを務めた野球界の人物でした。しかし、2025年8月16日、60歳で亡くなっています。同月26日には、息子の山田裕貴さんが自身のSNSを通じて訃報を公表しました。
山田裕貴さんが俳優を目指した背景にも、父・和利さんとの関係が深く関わっています。幼少期から父の背中を追って野球に取り組んだものの、途中で挫折。その後、父に自分の活躍を見てもらいたいという思いも、俳優への道を選ぶきっかけになりました。2025年の訃報公表後には、父との思い出や闘病中の出来事も明かされています。2026年11月現在の情報を含め、親子の歩みと山田和利さんの野球人生を整理します。
【結論】山田裕貴のお父さんは元プロ野球選手・山田和利さん

山田裕貴さんのお父さんは、愛知県出身の元プロ野球選手、山田和利さんです。1983年のドラフト会議で中日ドラゴンズから4位指名を受け、プロ野球選手としてのキャリアをスタートさせました。
現役時代は内野手としてプレーし、中日ドラゴンズと広島東洋カープの両球団に所属。現役引退後も指導者として野球界に携わり、広島の二軍コーチなどを歴任しました。
一方、息子の山田裕貴さんは、2011年に俳優デビュー。『海賊戦隊ゴーカイジャー』をはじめ、映画やドラマで幅広い役柄を演じる実力派俳優へと成長しました。
親子は同じ野球の道を歩んだわけではありません。裕貴さんは少年時代、父親と同じプロ野球選手を目指していましたが、野球を辞めて俳優の道へ進みます。その決断の背景には、父親への憧れと、父親に自分の存在を認めてもらいたいという思いがありました。
2025年8月に和利さんが亡くなった後、裕貴さんは父親との思い出や闘病についても語っています。単に有名人の親子という関係ではなく、互いの仕事を通じて影響を与え合った親子だったことが伝わってきます。
【プロフィール】山田和利さんの経歴と中日・広島での選手生活
山田和利さんの基本プロフィール山田和利さんは1965年6月3日生まれ。愛知県の東邦高校で野球に取り組み、1983年のドラフト4位で中日ドラゴンズに入団しました。
日本野球機構(NPB)の公式選手データには、右投右打、身長178cm、体重82kgと記録されています。内野手としてプレーし、打撃だけでなく堅実な守備でもチームを支えた選手でした。
基本プロフィールを整理すると、次のとおりです。
- 名前:山田和利(やまだ・かずとし)
- 生年月日:1965年6月3日
- 出身:愛知県
- 出身高校:東邦高校
- ポジション:内野手
- 投打:右投右打
- 身長・体重:178cm・82kg
- ドラフト:1983年ドラフト4位
- 所属球団:中日ドラゴンズ、広島東洋カープ
- 死去:2025年8月16日(60歳)
生年月日や選手としての基本データは、NPB公式の個人年度別成績に掲載されています。
中日ドラゴンズから広島東洋カープへ移籍山田和利さんは1984年に中日へ入団。プロ野球選手として経験を積み、1988年には82試合に出場して打率.268を記録しました。
1990年オフには広島東洋カープへ移籍。中日と広島の間で成立したトレードによるもので、移籍後は出場機会を増やしていきます。
特に注目したいのが1992年です。このシーズンは93試合に出場し、75安打、8本塁打、29打点、打率.282を記録。翌1993年は公式年度別成績に出場記録がありませんが、1994年には49試合、1995年には94試合に出場しています。
1995年は12本塁打、53打点を記録。1996年には中日へ復帰しましたが、同年限りで現役を引退しました。
山田和利さんのNPB通算成績NPB公式記録による通算成績は、以下のとおりです。
- 通算出場試合:366試合
- 通算打数:865
- 通算安打:227本
- 通算本塁打:22本
- 通算打点:102打点
- 通算盗塁:21
- 通算打率:.262
プロ野球の選手としての実績を確認するうえでは、単に本塁打数だけを見るのではなく、出場試合数や安打、打率、打点などを総合的に見る必要があります。山田さんは内野手として複数の球団でプレーし、チームの戦力として貢献した選手でした。
現役引退後はコーチとしても活躍山田和利さんの野球人生は、1996年の現役引退で終わったわけではありません。
引退後は中日や広島で指導者として活動。広島では二軍の打撃や内野守備・走塁などに関わり、2015年から2021年までは二軍コーチを務めました。
選手としてだけでなく、若手選手を育てる立場でもプロ野球界に貢献していたことが分かります。
山田和利さんの経歴・親子関係を年表で整理| 時期 | 人物・出来事 | 主な内容 |
|---|---|---|
| 1965年6月3日 | 山田和利さん | 愛知県で生まれる |
| 1983年 | 山田和利さん | 東邦高校から中日ドラゴンズにドラフト4位指名 |
| 1988年 | 山田和利さん | 中日で82試合に出場、打率.268 |
| 1991年 | 山田和利さん | 広島東洋カープへ移籍 |
| 1992年 | 山田和利さん | 93試合出場、打率.282、8本塁打 |
| 1995年 | 山田和利さん | 広島で12本塁打、53打点 |
| 1996年 | 山田和利さん | 中日に復帰し、現役引退 |
| 引退後 | 山田和利さん | 中日・広島でコーチなどを歴任 |
| 2011年 | 山田裕貴さん | 俳優として本格的に活動を開始 |
| 2024年8月 | 山田裕貴さん・山田和利さん | ラジオ番組で家族共演 |
| 2025年8月16日 | 山田和利さん | 60歳で永眠 |
| 2025年8月26日 | 山田裕貴さん | 父親の死去をSNSで公表 |
選手の年度別成績は日本野球機構の公式データ、移籍や指導者としての経歴は日刊スポーツなどの報道に基づいています。
【俳優を目指した理由】山田裕貴さんはなぜ父と同じ野球の道を選ばなかった?
山田裕貴さんが俳優になった背景には、父・和利さんへの強い憧れがありました。
裕貴さんは幼少期から父親の活躍を見て育ち、小学3年生から野球を始めています。父親のようなプロ野球選手になることを夢見て、少年時代を過ごしました。
しかし、野球の実力を伸ばす過程で壁にぶつかります。中学時代に所属した硬式野球のチームではレギュラーを獲得できず、父親と同じプロの世界に進むことの難しさを実感しました。
父の母校・東邦高校へ進学した少年時代裕貴さんが進学したのは、父親の母校でもある愛知県の東邦高校です。
父親と同じ高校へ進むことには、少しでも父に近づきたいという気持ちがあったと、2023年放送のTBS系「日曜日の初耳学」で振り返っています。
ただし、高校では野球部に入らず、競技から離れた生活を送りました。
高校3年生のとき、東邦高校が甲子園に出場。スタンドから試合を応援する中で、中学時代のチームメートが4番打者として出場する姿を目にします。
自分は野球を辞めてしまったという悔しさや、父親を追いかけていた人生から離れてしまったという複雑な感情が込み上げ、試合前から涙が止まらなくなったといいます。
この経験が、次に自分で選ぶ道を最後まで続けようと決意する転機になりました。
父親に自分の出演作品を見てもらいたかった俳優を目指した理由について、裕貴さんは過去のインタビューで、父親との家庭での過ごし方を明かしています。
父親はプロ野球選手として遠征や試合に出る生活を送っていたため、親子で野球の話をする機会は多くありませんでした。キャッチボールもほとんどしたことがなく、父親から野球を教えてもらった経験もなかったといいます。
一方で、家族でテレビや映画を見る時間は共通の楽しみでした。
裕貴さんは、テレビや映画の世界に入れば父親に自分の姿を見てもらえるのではないかと考えるようになります。
加えて、テレビに出演する回数なら父親を超えられるかもしれないという思いもあったそうです。
マイナビニュースなどのインタビューでも、17〜18歳ごろに俳優を志したことを明かしています。高校卒業後は名古屋から上京し、俳優養成所で演技を学び始めました。
2011年には『海賊戦隊ゴーカイジャー』で俳優として本格的に注目されるようになり、その後、映画やドラマへの出演を重ねていきました。
父親と同じ職業を選ばなかったことは、父親への憧れを失ったからではありません。むしろ、父親に自分の仕事を見てもらいたいという気持ちが、新しい人生を切り開く原動力になっていたのです。
【親子エピソード】山田裕貴さんと父親の関係は?厳しさの中にあった愛情
山田裕貴さんは、父親との関係について、これまで複数のテレビ番組やインタビューで語っています。
その内容から見えてくるのは、何でも話せる親子というより、互いに距離を感じながらも、心の中では強く意識し合っていた親子の姿です。
野球の話をほとんどしなかった理由2019年に出演した日本テレビ系の番組で、裕貴さんは父親とは野球の話をほとんどしなかったと振り返っています。
父親がプロ野球選手だったため、同じ野球をすることでライバルのように感じてしまったこともあったそうです。父親に教えてもらうことへの恥ずかしさもあり、キャッチボールをする機会もありませんでした。
加えて、後年のインタビューでは、プロ野球選手がアマチュア選手を指導できないというルールを父親が家族に対しても守っていたのだと理解したことを明かしています。
当時は親子の距離を感じていたものの、父親にはプロ野球選手としての立場や責任があったことを、成長してから受け止められるようになったのでしょう。
俳優になってからも父親の評価は厳しかった裕貴さんが俳優として活躍するようになってからも、父親は作品をよく見ていたそうです。
しかし、息子だからといって手放しで褒めるわけではありませんでした。
2019年のスポーツニッポンの報道によると、和利さんは裕貴さんの演技について、まだまだだという厳しい評価を伝えていたといいます。
「もっとすごみを出せ」といった趣旨の助言もあり、裕貴さん自身は父親からのダメ出しに苦笑いすることもありました。
ただし、父親が息子の出演作品を継続して見ていたことは、俳優としての活動を気にかけていた証拠でもあります。
2024年8月にはラジオで家族共演が実現親子の関係を知るうえで印象的なのが、2024年8月26日深夜放送のニッポン放送「山田裕貴のオールナイトニッポン」です。
この放送では、裕貴さんの父親、母親、妹が番組に登場。家族そろっての共演が実現しました。
それまで父親の顔や家庭内の詳細を積極的に公開していたわけではない裕貴さんにとって、家族と一緒に番組に出演することは特別な機会だったようです。
2025年9月のラジオ放送では、裕貴さん自身がこの家族共演について「本当に僕はいい思い出になった」と振り返っています。
父親が亡くなる約1年前の出来事となりましたが、後に裕貴さんが大切な思い出として語ったことからも、家族で過ごした時間の意味が伝わってきます。
父親が息子に残した最後のメッセージ2025年9月9日放送の日本テレビ系「しゃべくり007」では、裕貴さんの両親からの手紙が紹介されました。
父・和利さんからのメッセージには、俳優として歩んできた息子への評価がつづられていました。
「厳しい世界の中で戦い抜いているところがすごいと思います。」
戦隊シリーズへの出演をきっかけに、人との出会いや作品との出会いを重ね、少しずつ俳優としての居場所を築いてきたことにも触れていました。
これまで厳しい評価を伝えることが多かった父親が、息子の努力を認め、18歳で上京してから諦めずに自分の道を続けてきたことを称賛していたのです。
このメッセージを受け取った裕貴さんは、父親が最近は褒めてくれるようになっていたことに触れ、改めてうれしい気持ちを伝えていました。
父親の厳しい言葉の裏側にあったのは、息子の仕事を真剣に見守る姿勢だったの可能性があります。
【2025年8月の訃報】山田和利さんの死去とがん闘病の経緯
2025年8月26日、山田裕貴さんは自身のSNSを更新し、父・山田和利さんが亡くなったことを公表しました。
亡くなった日は2025年8月16日。享年60歳でした。
訃報の公表まで10日間の時間があった背景には、父親本人の意思がありました。
約4年前からがんを患い、闘病していた裕貴さんが公表した内容によると、和利さんは亡くなる約4年前からがんを患い、闘病生活を送っていました。
家族の発表では、病気について公にしなかった理由も説明されています。
「父は約4年前に癌を患い闘病していましたが、故人の意思により公にはせず過ごしてまいりました。」
つまり、病気を公表しなかったのは、家族が情報を隠していたという単純な話ではなく、本人の意思を尊重した結果でした。
なお、がんの種類や具体的な治療内容、入院歴などの医学的な詳細は、家族から公表されていません。
余命半年から1年と告げられていたことも判明2025年9月1日深夜放送の「山田裕貴のオールナイトニッポン」では、裕貴さんが父親の闘病についてさらに詳しく語りました。
裕貴さんによると、父親はプロ野球界を離れることになった後、初めて病院で検査を受け、そこでがんが見つかったそうです。
当初は余命半年から1年ほどと告げられていたものの、その後も約4年間にわたって闘病を続けました。
裕貴さんは、父親が亡くなるまでに何度か覚悟をする場面があったことも明かしています。父親から母親のことを頼むと伝えられたこともあったといい、親子で病気と向き合ってきた時間の重さがうかがえます。
また、2021年ごろに父親がプロ野球界を離れることになった際、裕貴さんは自身の仕事で大きな賞を受けた日に父親から電話を受けたと振り返っています。
息子が俳優として評価され始めた時期と、父親が長年携わってきた野球界から離れる時期が重なっていたことは、裕貴さんにとって忘れられない出来事だったようです。
なぜ訃報の公表は8月26日だったのか和利さんが亡くなったのは8月16日ですが、裕貴さんが公表したのは8月26日でした。
この10日間の差について、裕貴さんは9月1日のラジオで説明しています。
父親は中日ドラゴンズと広島東洋カープに所属していた元プロ野球選手であり、球団関係者やOB、応援してくれたファンへの感謝を伝える必要があると考えたそうです。
一方で、父親は生前、病気を広く知らせることを望んでいませんでした。そのため、本人の意思を尊重しながら、亡くなった後に家族として報告する形になりました。
裕貴さんはラジオで、父親が関係者にあいさつをしないまま亡くなってよかったのかという思いも語り、SNSで報告した理由を説明しています。
葬儀は近親者のみで執り行われた家族の発表によると、葬儀は近親者のみで執り行われました。
また、供花や香典についても辞退する意向が示されています。家族は父親を支えてくれた球団関係者やOB、ファンに対して感謝の言葉を伝えました。
このように、2025年8月26日の発表では、死亡日、享年、約4年間の闘病、本人の意思による非公表、近親者のみの葬儀という内容が明らかになりました。
【2026年最新】山田裕貴さんと父親について知っておきたい事実と誤解
2026年11月現在、山田和利さんはすでに亡くなっています。父親について検索する人が知りたい情報には、プロフィールや野球成績だけでなく、病気や親子関係に関する疑問も含まれます。
ここでは、報道や本人の発言から整理できる情報を確認します。
山田裕貴さんの父親は芸能人ではなく元プロ野球選手山田和利さんは芸能活動をしていた人物ではありません。プロ野球選手として中日と広島でプレーし、引退後はコーチとして野球界に携わっていました。
息子が俳優として有名になったことで親子関係が広く知られるようになりましたが、和利さん自身にもプロ野球選手としての経歴があります。
親子は野球を通じて常に一緒に練習していたわけではない裕貴さんは父親を尊敬して野球を始めた一方、父親から直接野球を教わったわけではありません。キャッチボールの経験もほとんどなかったと語っています。
この点は、元プロ野球選手の父親を持つ子どもが、必ずしも同じ競技環境で育つわけではないことを示すエピソードです。
訃報は2025年8月26日、亡くなったのは8月16日死亡日と公表日を混同しないことも大切です。
正確には、2025年8月16日に亡くなり、8月26日に裕貴さんがSNSで報告しました。公表が遅れた理由は、本人の意思によって病気を公にしていなかったためです。
2026年時点で公表されている闘病情報には限りがあるがんを患っていた期間は約4年間で、当初は余命半年から1年ほどと告げられていたことが裕貴さんのラジオで明かされています。
ただし、がんの種類や治療法などは公表されていません。具体的な病状について、確定していない情報を事実として扱うことはできません。
現在確認できる情報の中心は、家族の発表と裕貴さん本人のラジオでの説明です。
【プロの結論】父親の影響は俳優・山田裕貴の原点にある山田裕貴さんと山田和利さんの関係を振り返ると、興味深いのは、父親が息子に野球選手としての成功を押しつけたわけではないという点です。
裕貴さん自身の話では、父親から野球をやれと言われて始めたのではなく、父親の姿に憧れて自分から競技を始めました。そして、野球を辞めて俳優を目指すと決めたときにも、自分で選んだ道を続けることの大切さを教えられていました。
父親は野球界で実績を残し、息子は芸能界で自分の居場所を築く。歩んだ道は違っても、仕事に対する厳しさや、努力を積み重ねる姿勢には共通するものがあります。
また、裕貴さんが「父親を超えたい」と考えて俳優を志した時期から、父親が息子の演技に厳しい評価を伝えるようになった時期、そして最後に息子の努力を認めるメッセージを残した時期まで、親子の関係は少しずつ変化していました。
父親の影響を単なる二世俳優という言葉だけで片付けることはできません。山田裕貴さんにとって父親は、人生の目標であり、乗り越えたい存在であり、最後まで自分の仕事を見守ってくれた大切な人だったのです。
【山田裕貴のお父さん】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:山田裕貴のお父さんは誰ですか? A1:元プロ野球選手の山田和利さんです。中日ドラゴンズと広島東洋カープで内野手として活躍し、引退後はコーチも務めました。
Q2:山田和利さんはいつ亡くなりましたか? A2:2025年8月16日です。60歳で亡くなり、息子の山田裕貴さんが同月26日にSNSで公表しました。
Q3:山田和利さんの死因は何ですか? A3:約4年前からがんを患い、闘病していました。2025年9月の報道では、がんのため亡くなったと伝えられています。
Q4:山田和利さんのプロ野球通算成績は? A4:NPB公式記録では、通算366試合、227安打、22本塁打、102打点、打率.262です。
Q5:山田裕貴さんが俳優になった理由に父親は関係していますか? A5:大きく関係しています。父親に自分の出演作品を見てもらいたいという気持ちや、父親を超えたいという思いが俳優を目指すきっかけの一つになりました。
Q6:山田裕貴さんと父親の仲は良かったのですか? A6:幼少期には父親と野球の話をほとんどせず、距離を感じていた時期もありました。しかし、父親は息子の出演作品をよく見ており、演技について厳しい助言をするなど、互いに強い関心を持つ親子でした。
Q7:山田和利さんのがん闘病はいつからですか? A7:約4年前からです。裕貴さんの2025年9月のラジオでの説明では、病気が判明した当初、余命半年から1年ほどと告げられていたことも明かされています。
Q8:山田和利さんの訃報が公表されたのはなぜ亡くなってから10日後なのですか? A8:本人の意思で病気を公表せずに過ごしていたためです。裕貴さんは、父親を支えた球団関係者やOB、ファンへの感謝を伝えるため、亡くなった後にSNSで報告したと説明しています。
山田裕貴さんのお父さんは、元プロ野球選手の山田和利さんです。中日ドラゴンズと広島東洋カープで内野手として活躍し、NPB通算366試合、22本塁打、打率.262という成績を残しました。
裕貴さんは少年時代、父親に憧れて野球を始めました。しかし、野球での挫折を経験し、高校卒業後は俳優の道を選びます。その背景には、父親に自分の出演作品を見てもらいたいという思いがありました。
父親は息子の演技に厳しい意見を伝えながらも、俳優として成長する姿を見守っていました。2025年9月に紹介された父親からのメッセージには、長年努力を続けてきた息子への誇りと愛情が込められていました。
2025年8月16日に60歳で亡くなった山田和利さん。約4年間のがん闘病を本人の意思で公表せずに過ごし、同月26日に息子が訃報を伝えました。
2026年現在、山田裕貴さんの俳優人生を語るうえで、父親の存在は欠かせません。野球選手と俳優という異なる世界を歩んだ親子ですが、互いの仕事を尊重し、最後までつながっていた関係は、これまでの本人の発言や家族の記録からも伝わってきます。
主な情報確認資料: 日本野球機構(NPB)公式選手成績、日刊スポーツ(2025年8月26日・9月2日・9月9日)、スポーツニッポン(2023年5月21日)、マイナビニュース(2019年6月24日)。