- 子供の人数: 妻との間に生まれた子供は、家系資料によって10人または11人。庶子まで含めると17~18人以上とされる。 - 最初の妻・千代: 2男3女の5人。長女は穂積歌子、次女は阪谷琴子、長男は渋沢篤二。 - 後妻・兼子: 5男1女の6人。渋沢武之助、渋沢正雄、渋沢秀雄らがいる。 - 庶子: 大内くにとの間に生まれたふみ、てるをはじめ、複数の子供が確認されている。 - 子孫: 渋沢敬三、鮫島純子、渋沢雅英など、政財界や文化・事業分野につながる子孫がいる。
【結論】渋沢栄一の子供は何人?10人・11人・18人以上と数字が違う理由

渋沢栄一の子供の人数を調べる際、最初に理解しておきたいのは、数え方が一つではないことだ。
2024年にプレジデントオンラインで掲載された経営史学者・系図研究者の菊地浩之氏による家系解説では、千代と兼子との間に生まれた子供について、家系図上の11人と、一般的に数えられる6男4女の10人という違いが説明されている。
加えて、側妻との間に生まれた庶子が少なくとも7人確認されている。したがって、妻との間の子供だけを数える場合と、婚外子まで含める場合とでは、合計が大きく変わる。
人数の違いを整理すると| 数え方 | 人数 | 意味 |
|---|---|---|
| 千代との子供 | 5人 | 2男3女 |
| 兼子との子供 | 6人 | 5男1女 |
| 妻との子供・家系図上 | 11人 | 7男4女として記載 |
| 妻との子供・一般的な集計 | 10人 | 敬三郎を含めない集計 |
| 妻以外との子供 | 少なくとも7人 | 庶子として紹介される人数 |
| 全体 | 17~18人以上 | 集計方法によって変わる |
特に注意したいのが、兼子との間に生まれた敬三郎の扱いだ。
敬三郎は1883年に生まれ、早く亡くなった子供として系図資料に記載されている。一方、一般的な子供の人数を紹介する記事では、この子を除いて6男4女とする場合がある。
このため、単純に「公式には10人」「実際には18人」と断定するよりも、妻との間の子供は10~11人、庶子を含めると17~18人以上と整理するのが適切だ。
なお、庶子についても全員の親子関係や出生記録が同じ精度で確認できるわけではない。18人という数字は、家系資料に記載された人数を積み上げた目安として理解したい。
【妻・千代と後妻・兼子】子供の名前一覧と生没年
渋沢栄一の家庭を理解するには、最初の妻・千代と後妻・兼子を分けて見る必要がある。
最初の妻・千代との間に生まれた5人千代は1841年、尾高家に生まれた女性で、渋沢栄一とは従兄妹の関係にあった。
2人は1858年(安政5年)12月7日に結婚した。千代は栄一が幕末から明治維新にかけて活動する間、故郷に残って家庭を支えた人物でもある。
渋沢史料館が所蔵する書簡には、栄一が千代に宛てて送った手紙が残されている。娘の歌子が生まれた直後に栄一が郷里を離れたことや、フランス渡航中にも手紙を交わしていたことが紹介されている。
千代は1882年(明治15年)、コレラにより亡くなった。
子供は次の5人である。
1.長男・渋沢市太郎(1862~1862年)
生まれた年に亡くなった長男。幼くして亡くなったため、後世の家系解説では名前が省略されることもある。
2.長女・穂積歌子(1863~1932年)
歌子は、栄一と千代の長女である。
法学者の穂積陳重と結婚し、穂積家の一員となった。夫の陳重は日本の近代法学の発展に大きく貢献した人物で、後に枢密院議長も務めている。
歌子は父や夫の生活を記録した『穂積歌子日記』でも知られる。
この日記は、著名な実業家の娘として過ごした家庭生活や、明治期の知識人社会を知る手がかりになる資料だ。
3.次女・阪谷琴子(1870~1925年)
琴子は大蔵官僚出身の阪谷芳郎と結婚した。
阪谷芳郎は大蔵大臣や東京市長を歴任した人物である。
琴子の結婚によって、渋沢家は官界の阪谷家とも親族関係を築くことになった。2人の間には4人の子供が生まれたとされる。
また、琴子の孫である阪谷芳直は、渋沢家の家系を伝える『三代の系譜』を著している。この系譜は、栄一の子供の人数を検討する際にも参照される資料だ。
4.三女・渋沢糸子(1871~1871年)
糸子も生まれた年に亡くなった子供である。
一部の資料では伊登という別名でも記載されている。
5.次男・渋沢篤二(1872~1942年)
篤二は千代との間に生まれた長男であり、渋沢家の後継者として期待された人物だ。
実業界に入り、澁澤倉庫の経営にも携わった。しかし、1913年(大正2年)に廃嫡され、後継者の立場を離れる。
その後、栄一は篤二の長男である渋沢敬三を後継者に指名した。
この出来事は、渋沢家の家督継承を考えるうえで重要な転換点となった。
後妻・兼子との間に生まれた6人千代が1882年に亡くなった翌年、栄一は伊藤兼子と再婚した。
兼子は江戸の豪商・伊藤家の出身で、栄一とは以前から縁があったとされる。2人の間には5男1女が生まれた。
1.渋沢敬三郎(1883年生・早世)
兼子との間に生まれた最初の男児とされる。生まれた年に亡くなったとする系図資料がある。
この子の記載の有無が、10人と11人の違いにつながっている。
2.渋沢武之助(1886~1946年)
兼子との間に生まれた男子。家系上は栄一の三男にあたる。
3.渋沢正雄(1888~1942年)
正雄は実業家として活動し、製鉄業などの分野に関わった人物である。
栄一が関わった事業を引き継ぐだけでなく、自身も経営者として活動した。
正雄の次女が、後にエッセイストとして知られる鮫島純子である。
4.明石愛子(1890~1977年)
愛子は栄一と兼子の間に生まれた娘で、銀行家の明石照男と結婚した。
結婚後は明石家の一員となり、渋沢家と明石家の親族関係をつないだ。
5.渋沢秀雄(1893~1984年)
秀雄は栄一と兼子の間に生まれた男子で、実業界で活動した。
東京宝塚劇場や東宝などの経営にも関わり、渋沢家の事業的なつながりを伝える人物の一人である。
6.渋沢忠雄(1896~1897年)
兼子との間に生まれた男児。1歳前後で亡くなったとされる。
以上のように、兼子との間には、早世した子供も含めて6人の名前が伝えられている。
【家系図・人物相関】渋沢栄一から子孫へ続く家族関係
渋沢栄一の家系図は、単純に渋沢姓の人物だけを追っても全体像を把握できない。
娘たちは穂積家、阪谷家、明石家などに嫁ぎ、庶子の系統も尾高家や大川家などへ広がった。
深谷市の「中の家」の略系図でも、栄一の嫡系と庶系が区別されている。家系を調べる場合には、この区別が重要になる。
渋沢栄一の簡易家系図
渋沢栄一(1840~1931年)
千代(1841~1882年)
1858年結婚・子供5人
- 市太郎
- 穂積歌子 ─ 穂積陳重
- 阪谷琴子 ─ 阪谷芳郎
- 糸子
- 篤二 ─ 敬三(栄一の孫・後継者)
兼子(~1934年)
1883年再婚・子供6人とする系図
- 敬三郎
- 武之助
- 正雄 ─ 鮫島純子
- 明石愛子 ─ 明石照男
- 秀雄
- 忠雄
大内くにほか
- 尾高ふみ(文子)
- 大川てる(照子)
- 星野辰雄
- 安本つる
- 川崎まつ
- 長谷川重三郎
- 長谷川遠四郎
※簡略化した関係図。婚姻・養子関係を含む。敬三郎など早世した子の扱いは資料によって異なる。
| 母・系統 | 子供 | 生没年 | 婚姻・後代の関係 |
|---|---|---|---|
| 千代 | 市太郎 | 1862~1862 | 早世 |
| 千代 | 穂積歌子 | 1863~1932 | 穂積陳重の妻 |
| 千代 | 阪谷琴子 | 1870~1925 | 阪谷芳郎の妻 |
| 千代 | 糸子 | 1871~1871 | 早世 |
| 千代 | 篤二 | 1872~1942 | 渋沢敬三の父 |
| 兼子 | 敬三郎 | 1883年生・早世 | 乳幼児期に死去とされる |
| 兼子 | 武之助 | 1886~1946 | 渋沢家の子孫系統 |
| 兼子 | 正雄 | 1888~1942 | 鮫島純子の父 |
| 兼子 | 明石愛子 | 1890~1977 | 明石照男の妻 |
| 兼子 | 秀雄 | 1893~1984 | 実業界で活動 |
| 兼子 | 忠雄 | 1896~1897 | 早世 |
| 庶系 | 尾高ふみ | 1871年生 | 尾高次郎の妻 |
| 庶系 | 大川てる | 1875~1927 | 大川平三郎の妻 |
| 庶系 | 星野辰雄 | 1892年生とする資料あり | 星野家の養子 |
| 庶系 | 安本つる | 1897年生 | 安本明治郎の妻 |
| 庶系 | 川崎まつ | 1900年生 | 川崎甲子男の妻 |
| 庶系 | 長谷川重三郎 | 1908~1985 | 第一銀行頭取 |
| 庶系 | 長谷川遠四郎 | 1913年生 | 詳細な生没年は不明 |
出典:菊地浩之氏による家系研究、深谷市の略系図、渋沢家関係資料。庶系の一部は親子関係に関する系譜上の記載であり、すべてが同一の公的戸籍資料で確認されたものではない。
【庶子の実態】大内くにとの子供と知られざる家族関係
渋沢栄一の子供の人数が多い理由として、正妻以外の女性との間に生まれた子供の存在が挙げられる。
その中でも、歴史資料や家系研究で名前が取り上げられることが多いのが大内くにである。
大内くにとの間に生まれた娘たち大内くには栄一の側妻として知られる女性で、栄一と千代が婚姻関係にあった時期に子供をもうけた。
系譜資料では、くにとの間に次の2人の娘が生まれたとされる。
尾高ふみ(1871年生まれ)
ふみは、千代の兄である尾高惇忠の次男・尾高次郎と結婚した。
その子供たちの中には、実業家の尾高豊作や、法哲学者の尾高朝雄、社会学者の尾高邦雄、作曲家の尾高尚忠などがいる。
栄一の庶子の系統からも、近代日本の経済界や学術・芸術分野に関わる人物が生まれたことになる。
大川てる(1875~1927年)
てるは、大川平三郎と結婚した。
大川平三郎は製紙業界で活躍し、「製紙王」と呼ばれた実業家である。
栄一の妻・千代の親族でもあり、渋沢家と大川家の関係は、親族同士の結婚によってさらに深まった。
大内くに以外の庶子とされる人物経営史学者の菊地浩之氏による2024年の家系解説では、大内くにとの娘2人以外にも、少なくとも5人の子供が挙げられている。
- 星野辰雄: 星野錫の養子となった人物。立教大学教授などを務めたとされる。
- 安本つる: 1897年生まれ。星野錫の養子となり、安本明治郎と結婚したとされる。
- 川崎まつ: 1900年生まれ。星野錫の養子となり、川崎甲子男と結婚したとされる。
- 長谷川重三郎: 1908~1985年。第一銀行頭取を務めた人物。公的には長谷川元の子とされる。
- 長谷川遠四郎: 1913年生まれとされる人物。
これらの名前は、系図研究で紹介されているものである。特に長谷川重三郎については、一般に公表された父親の記録と生物学的な父親に関する系譜上の説明を区別する必要がある。
なぜ庶子の人数は資料によって違うのか理由は大きく3つある。
1. 戸籍上の記載と血縁関係の違い
婚外子の場合、当時の戸籍上の父親の記載と、後世の家系研究で紹介される父親の情報が一致しないことがある。
2. 幼くして亡くなった子供の扱い
生まれてすぐに亡くなった子供や、出生情報が限定的な子供は、系図によって掲載の有無が異なる。
3. 養子縁組や婚姻による姓の変更
尾高家、大川家、星野家、長谷川家など、別の姓を名乗るようになった人物もいるため、渋沢姓だけを調べても家族関係を網羅できない。
つまり、渋沢栄一の子供を正確に把握するには、戸籍や家系図だけでなく、家族の日記、親族の記録、系譜研究を組み合わせて考える必要がある。
【渋沢栄一の子孫は現在どうなっている?】孫・ひ孫・玄孫まで紹介
渋沢栄一の子孫は、実業界だけでなく、政治、学術、文化、芸術など多様な分野へ広がっている。
ただし、栄一の娘や庶子の子供たちは、結婚や養子縁組によって姓が変わっている。そのため、現在の子孫を渋沢姓だけで探すことはできない。
孫・渋沢敬三は祖父の後継者になった渋沢敬三(1896~1963年)は、渋沢栄一の長男・篤二の長男である。
篤二が1913年に廃嫡された後、栄一の後継者に指名された。
敬三は第一銀行などで経験を積み、後に日本銀行総裁や大蔵大臣を務めた。
経済界での活動だけでなく、民俗学や文化研究にも力を入れたことでも知られている。
深谷市が2026年1月に発行した広報資料でも、敬三は栄一の孫であり、17歳のときに跡継ぎに指名された人物として紹介されている。
孫・鮫島純子は祖父との思い出を伝えた鮫島純子(1922~2023年)は、栄一の三男・正雄の次女である。
エッセイストとして活動し、著書などを通じて祖父・栄一との思い出を伝えた。
渋沢栄一記念財団の渋沢史料館は2023年、純子の記憶や証言を紹介する企画展を開催した。
純子は同年1月19日に100歳で亡くなった。栄一直筆の命名書を大切に保管していたというエピソードも、同館の展示資料で紹介されている。
ひ孫・渋沢雅英は記念財団の活動に携わる渋沢雅英は、渋沢栄一のひ孫にあたる人物である。
父親は栄一の孫・渋沢敬三。1997年から2020年まで公益財団法人渋沢栄一記念財団の理事長を務め、その後は相談役となった。
東京都の公表資料によれば、雅英は1925年2月27日生まれで、2024年9月には100歳を迎える節目の訪問を受けている。
2025年1月公開の財団役員名簿にも相談役として掲載されている。栄一の残した記録を保存し、その思想や活動を後世に伝える取り組みは、子孫による重要な継承活動の一つだ。
玄孫にも広がる渋沢家の系譜鮫島純子の孫にあたる鮫島弘子は、渋沢栄一から見ると玄孫にあたる。
エチオピアの素材を使ったファッションブランド「andu amet」を展開する実業家・デザイナーとして紹介されている。
こうした事例からも、渋沢家の子孫は、かつての財界の枠組みだけにとどまらず、現代のビジネスや文化の分野にも広がっていることが分かる。
子孫を調べる際に知っておきたいこと渋沢栄一の子孫について情報を探す場合、次の区別が役立つ。
- 渋沢姓を引き継ぐ直系の家族
- 娘の婚姻によって別姓になった子孫
- 庶子の系統から続く子孫
- 養子縁組によって家系に加わった人物
これらはそれぞれ異なる関係であり、姓が同じだから血縁がある、姓が違うから子孫ではない、という判断はできない。
また、一般の子孫全員について現在の居住地や家族構成が公表されているわけではない。公的な活動や本人が公開している情報を中心に見ることが大切だ。
【よくある質問】渋沢栄一の子供に関するFAQ
Q1:渋沢栄一の子供は結局何人ですか?
A1:妻の千代と兼子との間には、家系図上11人の名前が記録されています。ただし、早世した敬三郎を除いて10人と数える資料もあります。さらに庶子が少なくとも7人確認されており、全体では17~18人以上とされます。
Q2:渋沢栄一の子供で最も有名なのは誰ですか?
A2:長男の渋沢篤二、孫の渋沢敬三がよく知られています。また、長女の穂積歌子は『穂積歌子日記』を残した人物として重要です。
Q3:渋沢栄一の後妻・兼子との間に生まれた子供は何人ですか?
A3:系図資料では5男1女の6人です。渋沢武之助、渋沢正雄、明石愛子、渋沢秀雄などがいます。敬三郎のように早世した子供も含まれます。
Q4:渋沢栄一の庶子で有名な人物は誰ですか?
A4:尾高ふみ、大川てる、星野辰雄、長谷川重三郎などが挙げられます。特に長谷川重三郎は第一銀行の頭取を務めた人物として知られています。ただし、系譜上の父子関係と公的な親子記録は区別する必要があります。
Q5:渋沢栄一の妻は何人いましたか?
A5:正妻として知られるのは千代と後妻の兼子の2人です。このほかに側妻がおり、庶子も生まれています。
Q6:渋沢栄一の子孫は現在も活躍していますか?
A6:はい。渋沢栄一記念財団の活動に携わる子孫や、実業界、文化・芸術分野で活動する子孫がいます。鮫島純子のように、祖父との思い出を著書や証言で伝えた人物もいます。
Q7:渋沢栄一の長男は誰ですか?
A7:最初の妻・千代との間に生まれた渋沢篤二です。当初は家の後継者として期待されましたが、1913年に廃嫡され、その後は長男の渋沢敬三が栄一の後継者となりました。
渋沢栄一の子供について調べると、10人、11人、17人以上、18人以上と複数の数字が出てくる。
その背景には、幼くして亡くなった子供の扱いと、正妻以外の女性との間に生まれた庶子を含めるかどうかという違いがある。
今回紹介した要点は次のとおりだ。
- 千代との間には2男3女の5人。
- 兼子との間には5男1女の6人。
- 妻との間の子供は、敬三郎を含めるかによって10人または11人。
- 庶子は少なくとも7人が系譜研究で紹介されている。
- 子孫は渋沢家だけでなく、穂積家、阪谷家、明石家、尾高家、大川家などにも広がっている。
特に注目したいのは、長男の篤二から孫の敬三へと後継者が引き継がれた経緯、そして長女の歌子や次女の琴子を通じて、渋沢家の血縁がさまざまな家系へ広がった点だ。
渋沢栄一は近代日本の経済発展に大きな足跡を残した人物だが、その家族関係をたどると、実業家としての活動だけでは見えない明治・大正期の社会や家族のあり方も浮かび上がってくる。
子供の人数を正しく理解するには、単一の数字だけで判断せず、妻との間の子供、庶子、早世した子供、そして後世の子孫を分けて家系図を読むことが大切である。
主な参考資料:公益財団法人渋沢栄一記念財団・渋沢史料館、深谷市公開資料、東京都公表資料、菊地浩之氏の系図研究、ダイヤモンド・オンライン掲載資料。