元大関・若嶋津(本名・日高六男さん)と、元人気歌手の高田みづえさん。1985年の結婚を機に芸能界を引退した高田さんは、その後32年間にわたり相撲部屋のおかみとして夫と弟子たちを支えてきました。二人の出会いから夫婦として歩んだ年月、2017年の若嶋津さんの転倒事故、そして2026年3月15日の死去まで、その人生には数々の転機がありました。
2026年8月25日には、高田さんがNHK『うたコン』で11年ぶりにテレビ歌唱を披露。さらに10月24日にはニッポン放送のラジオ番組に生出演し、若嶋津さんとの馴れ初めを振り返りました。二人はどのように出会い、どんな夫婦だったのでしょうか。2026年11月現在の情報を含め、二人の人生と高田さんの新たな一歩を整理します。
【二人の馴れ初め】若嶋津と高田みづえは新聞の対談取材で出会った

若嶋津さんと高田みづえさんの出会いは、芸能界と大相撲という異なる世界を結び付けた新聞の対談取材でした。
二人はともに鹿児島県出身。若嶋津さんは当時から高田さんのファンだったことが知られています。一方、高田さんは当初、相撲に特別な関心があったわけではなく、仕事として取材に出向いたことが出会いのきっかけでした。
2026年10月のラジオ出演で明かした出会いの瞬間2026年10月24日、ニッポン放送『徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー』に生出演した高田さんは、若嶋津さんとの出会いを改めて語りました。
新聞の対談取材で相撲の支度部屋を訪れた高田さん。そこで、床山が若嶋津さんの髪を結っている最中に初対面を果たしたといいます。
高田さんが自己紹介をすると、若嶋津さんは顔を赤くしたそうです。その様子は高田さんにとって強く印象に残った出来事でした。
また、若嶋津さんは巡業や地方場所で不在になることが多く、二人は電話で話しながら互いを知っていきました。高田さんは当時の若嶋津さんについて、優しく、自分にはないものをたくさん教えてくれる人だったと振り返っています。ニッポン放送の番組ブログにも、このやり取りが詳しく掲載されています。
1985年2月に婚約、9月27日に結婚1985年2月、二人は婚約を発表しました。当時、若嶋津さんは大関として人気を集め、高田さんも歌手として絶頂期にありました。
同年9月27日、二人は結婚。華やかな芸能界で活躍していた高田さんが、人気力士の妻として新しい人生を選んだことは、当時大きな話題になりました。
二人の結婚は、単なる芸能人とスポーツ選手の結婚ではありません。高田さんが自分の長年の夢だった歌手活動に区切りをつけ、夫と家庭を中心にした人生へ踏み出す大きな決断でもありました。
【若嶋津の経歴】南海の黒ひょうと呼ばれた名大関の相撲人生
若嶋津さんは、1957年1月12日、鹿児島県の種子島に生まれました。本名は日高六男さん。浅黒い肌と俊敏な動き、甘いマスクで人気を集め、「南海の黒ひょう」の愛称で親しまれました。
1975年春場所、初代若乃花が師匠を務める二子山部屋から初土俵を踏みます。その後、着実に番付を上げ、1983年1月場所後に大関へ昇進しました。
幕内優勝2回、1984年に全勝優勝を達成若嶋津さんの現役時代を象徴するのが、1984年の活躍です。
同年3月場所では14勝1敗で初優勝。さらに7月の名古屋場所では15戦全勝を達成し、2度目の幕内最高優勝を果たしました。
軽量ながらスピード感のある相撲を持ち味とし、左四つからの攻めや俊敏な動きで強豪力士と渡り合いました。大関としての実績だけでなく、1980年代の大相撲人気を支えた力士の一人でもあります。
二所ノ関親方として後進を育成1987年7月場所で現役を引退した若嶋津さんは、年寄・松ケ根を襲名。1990年2月には松ケ根部屋を創設しました。
2014年には年寄・二所ノ関を襲名し、日本相撲協会の理事にも就任。2016年からは審判部長を務めました。
師匠としても実績を残し、小結・松鳳山ら7人の関取を育てています。現役時代の栄光だけでなく、引退後も相撲界に貢献した人物でした。
なお、検索では「若島津」と「若嶋津」の両方の表記が見られます。1980年に「若島津」へ改名し、1983年9月場所から「若嶋津」となりました。現在の正式な四股名として一般的に使われるのは「若嶋津」です。
【高田みづえの芸能界引退】人気絶頂で歌手を辞めた理由と32年間のおかみ時代
高田みづえさんは1977年、16歳で歌手デビューしました。デビュー曲は「硝子坂」。透明感のある歌声と高い歌唱力で人気を獲得し、昭和を代表する女性歌手の一人となりました。
「硝子坂」「私はピアノ」で確立した歌手としての地位代表曲には、次のような作品があります。
- 硝子坂:1977年のデビュー曲。高田みづえさんの名前を広く知らしめた代表作。
- 潮騒のメロディー:伸びやかな歌唱力が印象的なヒット曲。
- 私はピアノ:サザンオールスターズの楽曲をカバーした代表的な歌唱作品。
- そんなヒロシに騙されて:高田さんの表現力を印象付けた人気曲。
NHK紅白歌合戦には7回出場。『私はピアノ』をはじめとする楽曲は、現在も昭和歌謡を代表する作品として親しまれています。
引退理由は結婚と夫を支える人生への決断1985年、高田さんは若嶋津さんとの結婚を機に芸能界を引退しました。
2026年8月25日のNHK『うたコン』出演時には、引退について当時の気持ちを振り返っています。
歌手になることを長年夢見ていたため、まったく迷いがなかったわけではないと明かしました。それでも、若嶋津さんとの出会いについて「親方に巡り会い、愛が勝ったみたいな」と語っています。
つまり、歌手としての夢を捨てたという単純な話ではありません。自分が大切にしたい人生の選択として、結婚と家庭を選んだという背景がありました。
1990年から始まった相撲部屋のおかみとしての生活結婚後、若嶋津さんは1987年に現役を引退。1990年には松ケ根部屋を創設しました。
高田さんはここから本格的に相撲部屋のおかみとしての生活を始めます。
Number Webの2022年のインタビュー記事では、松ケ根部屋の創設当初、弟子3人と元力士のマネージャーという小規模な体制でスタートしたことが紹介されています。
当初は元歌手という経歴が目立つことに戸惑いもあったそうです。しかし、やがて「徹底的に裏方に徹してやろう」と考えるようになりました。
その仕事は、単に食事を用意することだけではありません。弟子たちの生活環境を整え、親元を離れて相撲の世界に飛び込んできた若者を精神面でも支える役割を担っていました。
クリスマスには弟子一人ひとりにプレゼントを用意し、成人式には赤飯を炊くなど、家庭的な気配りも大切にしていたといいます。
また、町内会役員やPTA役員を経験するなど、地域社会にも溶け込んでいきました。
高田さんが相撲部屋のおかみを務めた期間は、約32年間。2022年初場所を最後に、おかみとしての役割を卒業しました。
【夫婦の歩みを年表で整理】結婚から療養生活、2026年の別れまで
若嶋津さんと高田みづえさんの関係を理解するには、二人それぞれの人生の転機を時系列で見ると分かりやすくなります。
結婚、部屋の創設、事故、引退、そして死別まで、二人は長い年月を共に歩んできました。
| 時期 | 出来事 | 夫婦の歩み・背景 |
|---|---|---|
| 1977年 | 高田みづえが「硝子坂」でデビュー | 歌手として人気を獲得 |
| 1985年2月 | 婚約発表 | 二人の結婚が大きな話題に |
| 1985年9月27日 | 結婚 | 高田みづえは同年に芸能界を引退 |
| 1987年 | 若嶋津が現役引退 | 年寄・松ケ根を襲名 |
| 1990年2月 | 松ケ根部屋を創設 | 高田みづえがおかみとして夫を支える |
| 2014年 | 二所ノ関を襲名 | 日本相撲協会理事に就任 |
| 2017年10月19日 | 若嶋津が転倒、頭部を負傷 | 手術後、長期の療養生活へ |
| 2021年12月 | 部屋の継承と名跡交換 | 放駒親方が旧二所ノ関部屋を継承 |
| 2022年1月 | 高田みづえがおかみを卒業 | 若嶋津も65歳で協会を定年 |
| 2026年3月15日 | 若嶋津さんが肺炎で死去 | 69歳。高田さんは最愛の夫を見送る |
| 2026年8月25日 | NHK『うたコン』出演 | 高田みづえが11年ぶりにテレビ歌唱 |
| 2026年10月24日 | ニッポン放送に生出演 | 若嶋津さんとの馴れ初めを振り返る |
この年表から分かるのは、二人の関係が単なる夫婦生活にとどまらなかったことです。歌手と力士という異なる世界で活躍していた二人は、結婚後、相撲部屋という一つの生活基盤を築き、夫婦で弟子たちの成長を支えてきました。
また、2022年におかみを卒業した後も、若嶋津さんの療養生活を支える時間が続いていました。
【2017年の転倒事故と2026年3月15日の死去】若嶋津の晩年に何があったのか
2017年10月19日の転倒事故と頭部の手術若嶋津さんの人生を大きく変えたのが、2017年10月19日に起きた転倒事故でした。
千葉県船橋市内の路上で自転車で転倒し、頭部を強打。病院に搬送され、約4時間半に及ぶ頭部の手術を受けました。一時は意識不明の重体となり、集中治療室で治療を受けたことが当時の報道で伝えられています。
その後、生命の危機は脱したものの、以前のような生活に戻ることは簡単ではありませんでした。
高田さんは夫の療養生活を支え続けました。2026年3月の葬儀でのあいさつによると、当初は自宅での生活を続けていたものの、2025年8月からは自宅での介護が難しくなり、施設で療養することになったといいます。
2026年3月15日、肺炎のため69歳で死去2026年3月15日、元大関・若嶋津の日高六男さんが肺炎のため亡くなりました。69歳でした。
スポーツニッポンの報道によると、亡くなったのは午前11時34分。千葉県鎌ケ谷市内の病院でした。日本相撲協会も翌16日に死去を発表しています。
死因は肺炎です。2017年の転倒事故から長い療養生活を続けていたこともあり、相撲界や芸能界から追悼の声が寄せられました。
3月24日に営まれた葬儀では、高田みづえさんが喪主を務めました。約300人が参列し、夫を見送る高田さんは声を震わせながらあいさつしました。
葬儀で語られた家族への愛情葬儀でのあいさつでは、若嶋津さんが家族を何より大切にしていたことも明らかになりました。
高田さんによると、夫に「お父さんの幸せは何?」と尋ねると、いつも長男の勝信さん、長女のアイリさん、そして妻の名前を挙げていたそうです。
「それ以外何があるの」
これは、家族が自分にとって何より大切だという若嶋津さんの思いを伝える言葉でした。日刊スポーツが掲載した葬儀でのあいさつ全文にも、このエピソードが記録されています。
二人の間には長男・勝信さんと長女・アイリさんがいます。アイリさんはモデル・タレントとして活動しており、家族の近況も報じられてきました。
若嶋津さんの死去は、長年連れ添った夫婦の別れであると同時に、家族にとって大きな節目となりました。
【高田みづえの現在2026年最新】うたコンで11年ぶりの歌唱復帰
若嶋津さんの死去後、高田みづえさんの動向で大きな注目を集めたのが、2026年8月25日のNHK『うたコン』への出演です。
2026年8月25日「うたコン 一夜限りの復活SP」1985年に芸能界を引退した高田さんが、NHK総合の『うたコン』に出演。テレビで歌声を披露するのは11年ぶりとなりました。
披露した楽曲は、デビュー曲の「硝子坂」と、代表的なヒット曲「私はピアノ」です。
2015年にはNHKの『思い出のメロディー』で31年ぶりにNHKホールのステージに立ちましたが、2026年の出演は、それからさらに11年を経た歌唱披露となりました。
番組では谷原章介さんらに迎えられ、岩崎宏美さん、榊原郁恵さんら親交のある歌手とも再会しました。
出演を決めた背景には、若嶋津さんを亡くした後の心境の変化がありました。
「一歩前に踏み出してみたいという気持ちもありました」
高田さんは、夫の四十九日を終えた頃に出演の話を受けたと説明しています。
また、若嶋津さんが生前「硝子坂」を好きだったことにも触れました。療養中の夫の枕元で曲を流すと、口ずさむように唇を動かしていたというエピソードも紹介されました。
この出演は、単なる懐かしの歌手の復活ではありません。夫との思い出を胸に、長年離れていた歌の世界に一歩踏み出した出来事として受け止められました。
2026年10月24日には41年ぶりにニッポン放送へさらに2026年10月24日、高田さんはニッポン放送『徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー』に出演しました。
ニッポン放送への出演は41年ぶり。午前5時から番組終了の午前7時40分まで生出演し、歌手デビューまでの経緯や、若嶋津さんとの出会い、芸能活動時代の思い出などを語りました。
特に注目されたのは、二人の馴れ初めを本人の言葉で振り返ったことです。若嶋津さんとの出会いが新聞の対談取材だったことや、初対面で顔を赤くした若嶋津さんの様子など、当時の記憶が具体的に語られました。
2026年11月現在、高田さんはテレビとラジオで久しぶりに公の場へ姿を見せています。ただし、これらは特別番組やゲスト出演であり、継続的な歌手活動への完全復帰が発表されたわけではありません。
【プロの結論】若嶋津と高田みづえが残した夫婦の絆とは
若嶋津さんと高田みづえさんの人生を振り返ると、二人の関係には大きく3つの特徴が見えてきます。
1. 異なる世界で活躍した二人が築いた信頼関係一人は大相撲の大関、もう一人は人気絶頂の歌手でした。生活環境も仕事の性質も異なる二人でしたが、出会いから結婚までの過程では、電話での会話などを通じて互いを理解していきました。
2026年10月のラジオ出演で高田さん自身が出会いを振り返ったことは、二人の関係を理解するうえで貴重な証言となっています。
2. 高田みづえは元歌手という肩書きを超えておかみになった高田さんは芸能界を離れた後、若嶋津さんの妻という立場だけにとどまらず、相撲部屋を支える存在になりました。
弟子の生活を整え、地域との関係を築き、部屋の成長を支えた32年間は、歌手時代とは異なる形で社会に貢献した年月でもあります。
Number Webのインタビューで語られた「縁の下の力持ちとしての誇り」という考え方は、高田さんが選んだ人生をよく表しています。
3. 2026年の歌唱復帰は新しい人生の節目若嶋津さんの死去後に実現した『うたコン』出演は、高田さんにとって歌手としての原点を再び見つめる機会になりました。
特に「硝子坂」は、夫が好きだった曲でもあります。歌うことを通じて、夫と過ごした年月を振り返る意味もあったのでしょう。
ただし、一度のテレビ出演をもって完全な芸能界復帰と判断するのは適切ではありません。今後の出演や活動については、本人や所属レコード会社などから発表される情報が判断材料になります。
【若嶋津と高田みづえ】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:若嶋津と高田みづえの馴れ初めは何ですか?
A1:新聞の対談取材がきっかけです。相撲の支度部屋で初めて出会い、若嶋津さんが高田さんのファンだったことも知られています。2026年10月のラジオ番組でも高田さん本人が当時の様子を語りました。
Q2:若嶋津さんはいつ、何が原因で亡くなったのですか?
A2:2026年3月15日、69歳で亡くなりました。死因は肺炎です。千葉県鎌ケ谷市内の病院で午前11時34分に亡くなったと報じられています。
Q3:高田みづえさんはなぜ芸能界を引退したのですか?
A3:1985年に若嶋津さんと結婚したことを機に引退しました。2026年8月の『うたコン』では、歌手への憧れもあったものの、若嶋津さんとの出会いによって結婚を選んだという当時の心境を語っています。
Q4:高田みづえさんは2026年現在、歌手活動を再開したのですか?
A4:2026年8月25日のNHK『うたコン』で11年ぶりにテレビ歌唱を披露しました。10月24日にはニッポン放送にも生出演しています。ただし、継続的な歌手活動の再開が正式に発表されたわけではありません。
Q5:若嶋津と高田みづえの子供は何人ですか?
A5:長男の勝信さんと長女のアイリさんの2人です。アイリさんはモデル・タレントとして活動しています。2026年3月の葬儀では、高田さんが夫の家族への愛情について語りました。
Q6:高田みづえさんは相撲部屋のおかみをいつまで務めましたか?
A6:1990年の松ケ根部屋創設から、2022年初場所後まで約32年間務めました。若嶋津さんの定年に伴い、おかみとしての役割を卒業しました。
Q7:若嶋津さんはなぜ「南海の黒ひょう」と呼ばれていたのですか?
A7:浅黒い肌と俊敏な動きが特徴的だったためです。現役時代は大関まで昇進し、1984年には春場所と名古屋場所で幕内優勝を2回達成しました。
若嶋津さんと高田みづえさんは、1985年の結婚から約40年にわたり、互いを支えながら人生を歩んできました。
高田さんは人気歌手としてのキャリアを離れ、相撲部屋のおかみとして32年間、夫と弟子たちを支えました。一方の若嶋津さんは、大関として2度の幕内優勝を果たし、引退後も師匠として後進の育成に力を注ぎました。
2017年の転倒事故以降は療養生活が続き、2026年3月15日に肺炎で69歳の生涯を閉じました。
その後、高田さんは8月の『うたコン』で「硝子坂」と「私はピアノ」を披露し、10月にはラジオ番組で夫との出会いを振り返りました。
2026年の高田みづえさんを理解するうえで大切なのは、歌手への復帰という話題だけではありません。若嶋津さんと過ごした年月、相撲部屋のおかみとして積み重ねた経験、そして夫を見送った後に再び歌声を届けたという人生の変化です。
「南海の黒ひょう」と呼ばれた名大関と、昭和を代表する歌手。二人が築いた夫婦の歴史は、相撲と音楽という異なる世界を結び付けた、長く印象に残る歩みとなりました。
今後の高田さんの活動については、本人の出演発表や公式な番組情報が注目されます。