西武ライオンズの黄金時代を支えた右腕・渡辺久信。現役時代の豪快な投球や「ナベQ」の愛称で知られる人物ですが、若い頃はどのような高校球児だったのでしょうか。
渡辺久信は前橋工業高校時代から圧倒的な速球で注目され、高校1年夏の甲子園では147キロを記録。さらに高校3年春には関東大会で148キロを投げ、チームを初優勝に導きました。1983年のドラフト1位で西武に指名され、プロ野球選手としての道を歩み始めます。2025年のSportiva本人インタビューや2026年の週刊ベースボールの連載、NPBの公式記録をもとに、その成長過程を振り返ります。
【若い頃の原点】渡辺久信はどんな少年だった?前橋工業高校時代まで

渡辺久信は1965年8月2日生まれ、群馬県出身。現在の桐生市にあたる新里村で育ちました。
2026年2月に公開された週刊ベースボールの本人インタビューでは、幼少期の野球との出会いについて振り返っています。
野球を始めたきっかけは小学3年生のとき。父親にグラブを買ってもらったことでした。小学4年生から地域のチームに入り、もともと運動が得意だった渡辺は、早い段階から投手として頭角を現します。
当時のチームでは、周囲がほとんど6年生だったにもかかわらず、4年生の渡辺だけがAチームに選ばれ、5年生になるとエースを任されるようになりました。
野球だけではなかった身体能力渡辺の身体能力は野球に限ったものではありませんでした。中学3年生のときには、陸上大会の走り高跳びにも出場。本人のインタビューによると、正式な跳び方を当日に教わったにもかかわらず、郡の新記録で優勝した経験があります。
本人は当時の跳躍について、190センチ近く跳んだと思うと振り返っています。
こうしたエピソードからも、渡辺が高校入学以前から優れた身体能力を持っていたことが分かります。
前橋工業高校で投手として成長高校進学後は群馬県の前橋工業高校に進みました。ここで投手としての才能が一気に開花します。
NPBの選手プロフィールにも、経歴は「前橋工」と記録されています。
当時の渡辺は、速球の威力が大きな武器でした。一方で、後年の本人インタビューでは、高校時代から管理されることが苦手だったとも語っています。
「高校時代から管理されるのが苦手」
この言葉は、後に広岡達朗監督の厳格な管理野球に向き合うことになる渡辺の性格を理解するうえでも興味深いものです。
単に野球一筋で管理された生活を送る優等生ではなく、自分のペースや個性を大切にする高校生だったことが、本人の回想からうかがえます。
【甲子園出場】高校1年夏に147キロ!渡辺久信の伝説が始まった1981年
渡辺久信の高校時代を語るうえで欠かせないのが、1981年夏の第63回全国高校野球選手権大会です。
高校1年生ながら前橋工業のエースとして甲子園に出場。本人は2025年4月のSportivaのインタビューで、この大会のマウンドで147キロを記録したと明かしています。
高校1年生で147キロという速球は、当時の高校野球界でも大きなインパクトを与えるものでした。
甲子園では京都商と対戦前橋工業は大会2回戦で京都商と対戦しました。
試合は前橋工業が4点を挙げたものの、京都商が9回にサヨナラ勝ち。スコアは前橋工業4-5京都商でした。
渡辺にとって、この大会は最初で最後の甲子園出場となりました。
高校1年生で全国の舞台を経験したものの、その後は甲子園に戻ることができませんでした。しかし、甲子園で見せた速球は全国のスカウトの目に留まり、将来のプロ入りにつながる重要な実績となりました。
147キロは本人が語った高校時代の記録ここで押さえておきたいのは、147キロという数字の出どころです。
この記録は、Sportivaが2025年に掲載した本人インタビューで渡辺自身が振り返ったものです。NPBの年度別成績に掲載されるプロ時代の公式記録とは性質が異なります。
つまり、147キロは本人の証言に基づく高校時代の記録として紹介するのが正確です。
また、147キロを記録した甲子園出場は高校1年夏の出来事です。後述する148キロの関東大会優勝とは、時期も大会も異なります。
【148キロと関東大会優勝】高校3年春に渡辺久信が再び注目された理由
高校1年夏の甲子園で147キロを記録した渡辺でしたが、本人の回想によると、その後は一時的に伸び悩んだ時期もありました。
再び大きな注目を集めるきっかけとなったのが、高校3年生だった1983年春の関東大会です。
1983年春季関東大会で前橋工業が初優勝第35回春季関東地区高校野球大会は、1983年5月14日から18日まで開催されました。
この大会で前橋工業は快進撃を見せます。準決勝では横浜商を9対0で破り、決勝では高崎高校と対戦。最終的に7対2で勝利し、初優勝を果たしました。
決勝のバッテリーは渡辺久信と小林。渡辺は投手としてチームを優勝に導いています。
当時の大会記録には、前橋工業の初優勝が明記されています。本人もSportivaのインタビューで、この春の関東大会で148キロを記録して優勝したと振り返っています。
148キロがプロ入りへの大きな転機に渡辺本人によると、関東大会での148キロと優勝をきっかけに、一気に注目が集まりました。
特に注目すべきなのは、全12球団のスカウトが視察に訪れたという本人の証言です。複数回視察に来る球団もあり、渡辺自身も上位指名の可能性を意識するようになったといいます。
本人は当時、プロ野球選手になることを現実的に考え始めたのはこの頃だったと説明しています。
高校1年夏の147キロが全国に名前を知られるきっかけだったとすれば、高校3年春の148キロと関東大会優勝は、プロ入りを具体的な目標へと変えた出来事でした。
この2つの記録は、渡辺久信の高校時代を理解するうえで重要な転換点です。
【経歴・年表】1983年ドラフト1位から西武ライオンズ入団まで
高校時代に全国的な評価を高めた渡辺久信は、1983年秋のドラフト会議で西武ライオンズから1位指名を受けました。
ただし、西武が最初から渡辺を指名したわけではありません。ドラフト会議には、現在の渡辺を語るうえでも興味深い舞台裏があります。
広岡達朗監督が渡辺久信の指名を後押し2025年のSportiva本人インタビューによると、1983年のドラフトで西武は東海大学の高野光投手を1位指名しました。
高野にはヤクルト、大洋、阪急、西武の4球団が競合し、交渉権を獲得したのはヤクルトでした。
外れ1位をどうするか検討していた西武のドラフト会場で、当時の広岡達朗監督が前橋工業の渡辺に注目したといいます。
渡辺は後年、広岡監督が自分の名前を指名リストから見つけ、指名を促したという話を聞いたと明かしています。
こうして渡辺は西武から1位指名を受けました。本人は、ドラフト1位だったため入団をすぐに決めたと振り返っています。
渡辺久信の主な経歴と関係者一覧| 時期 | 人物・組織 | 出来事・記録 | 意味・関係性 |
|---|---|---|---|
| 1981年夏 | 前橋工業・京都商 | 甲子園2回戦で4対5。本人によると147キロを記録 | 高校1年で全国的な注目を集める |
| 1983年5月 | 前橋工業・高崎高校 | 春季関東大会決勝で7対2。前橋工業が初優勝 | 本人によると148キロを記録 |
| 1983年秋 | 西武・広岡達朗・根本陸夫 | 1983年ドラフト1位で西武が指名 | 広岡監督が指名を後押ししたと本人が回想 |
| 1984年 | 西武ライオンズ | プロ1年目は15試合登板、1勝 | プロ野球選手としてのキャリアがスタート |
| 1986年 | 西武・森祇晶体制 | 16勝、178奪三振、勝率.727 | 最多勝・最多奪三振・最高勝率を獲得 |
| 1996年 | 西武・オリックス | 6月11日にノーヒットノーラン達成 | 現役時代を代表する記録の一つ |
| 2025~2026年 | 日刊スポーツ | 客員評論家として活動 | 野球解説や古巣西武への提言を続ける |
NPBの選手プロフィールでは、渡辺のドラフト順位は1983年ドラフト1位と記載されています。実際にプロとして西武でプレーしたのは1984年からです。
このため、「1983年ドラフト1位」と「1984年西武入団」は、同じ出来事を指す表現ではなく、指名された年とプロ入り後の所属年度を区別して理解する必要があります。
プロ1年目から一軍で経験を積む1984年の渡辺は15試合に登板し、1勝1敗、防御率3.93を記録しました。
1年目から一軍のマウンドを経験し、翌1985年には43試合に登板。8勝8敗11セーブという成績を残しています。
この時期に渡辺を指導したのが広岡達朗監督でした。
渡辺は2025年のインタビューで、広岡監督の管理野球について、野球だけでなく食事まで厳しく管理されていたと回想しています。
高校時代から自由な気風を好んでいた渡辺にとって、プロ入り直後の環境は大きな変化でした。それでも後年、厳しい指導の下で真剣に野球と向き合えたことを肯定的に振り返っています。
【現役時代】1986年最多勝を獲得!ナベQが西武黄金時代を支えた実力
渡辺久信の若い頃を語るなら、プロ3年目の1986年は外せません。
1986年は渡辺が西武の主力投手として大きく飛躍したシーズンです。NPBの公式記録によると、39試合に登板して16勝6敗、勝率.727、防御率2.87、178奪三振を記録しました。
1986年に投手三冠を達成この年、渡辺が獲得したタイトルは次の3つです。
- 最多勝利:16勝
- 最多奪三振:178奪三振
- 最高勝率:.727
さらにベストナインにも選出されました。
プロ入りからわずか3年で、パ・リーグを代表する投手へと成長したことになります。
本人はSportivaのインタビューで、1985年の2年目に敗戦処理から勝ち試合のリリーフ、先発、ストッパーへと役割を広げた経験が、翌年の投手三冠につながったと振り返っています。
つまり、速球の才能だけでタイトルを獲得したのではありません。さまざまな場面で登板し、投手としての役割を広げた経験が大きかったのです。
最多勝は1986年だけではない渡辺は1986年の活躍を一度きりで終わらせませんでした。
西武ライオンズの公式選手紹介によると、最多勝は1986年、1988年、1990年の3回。1990年には18勝を挙げています。
また、1996年6月11日のオリックス戦ではノーヒットノーランを達成しました。
NPB通算成績は389試合登板、125勝110敗27セーブ、防御率3.67、1609奪三振です。
若い頃の写真で分かるトレンディーエース時代渡辺久信の若い頃の写真を探している人が注目したいのが、1980年代の西武時代です。
当時の渡辺は、近鉄の阿波野秀幸、日本ハムの西崎幸広らとともに「トレンディーエース」と呼ばれた投手の一人でした。
Sportivaに掲載された石毛宏典の回想では、入団当時の渡辺について、身長が高く、足が長く、どんな服装も似合う選手だったと評されています。
NPBの公式プロフィールに記載されている身長は185センチ。長身の右腕として、投球フォームのスマートさと躍動感も印象的でした。
若い頃の写真を見比べる際には、次の3つの時期を分けると分かりやすくなります。
- 1981年:前橋工業高校のユニフォームを着た高校1年生時代。147キロを記録した甲子園出場期。
- 1984~1986年:西武入団初期。若手投手から投手三冠を獲得するまでの成長期。
- 1988~1990年:最多勝を重ね、西武黄金時代の中心投手として活躍した時期。
特に1986年の写真は、若手から球界を代表する投手へ成長した時期を象徴する資料です。1989年10月12日の近鉄戦でラルフ・ブライアントに本塁打を浴びた場面の写真も、Sportivaのインタビュー記事に掲載されています。
ナベQという愛称で親しまれる存在に渡辺の愛称として広く知られているのが「ナベQ」です。
選手時代から親しまれた呼び名で、監督やGMとして活動した時期にもスポーツ紙の見出しなどで使われてきました。
2025年の日刊スポーツの取材でも、本人が「ナベQ」という呼び名に触れています。
単なる愛称にとどまらず、西武黄金時代の右腕、指導者、球団フロントという複数の顔を持つ渡辺を象徴する呼び名になっています。
【2026年現在】渡辺久信は何をしている?GM退任後の活動と現在の姿
現役時代の渡辺は1998年にヤクルトへ移籍し、その後は台湾の勇士でもプレーしました。2001年限りで現役を引退しています。
その後は西武に復帰し、二軍投手コーチや二軍監督を経験。2008年には一軍監督に就任し、就任1年目でリーグ優勝と日本一を達成しました。
2013年まで監督を務めた後はシニアディレクター、編成部長などを歴任。2019年からはゼネラルマネジャー(GM)としてチーム編成を担当しました。
2024年にGM兼監督代行を退任2024年5月27日、渡辺は松井稼頭央監督に代わって西武の監督代行に就任しました。GMとの兼任という立場でチームの指揮を執りました。
しかし、同年10月にはGM職を含めて退任する意向を表明。球団の2024年10月9日付の人事発表では、12月31日付で退任することが正式に示されています。
2025年からは野球評論家・解説者として活動2025年からは日刊スポーツの客員評論家として活動を開始しました。
同年2月には古巣西武のキャンプを訪問し、外部からチームを見つめる立場に変わりました。長年にわたって西武に関わってきた経験を生かし、選手やチームづくりについて意見を発信しています。
さらに2025年12月には、著書『獅子回顧録』も刊行されました。現役選手、監督、GMという立場から西武に関わった経験を振り返る内容です。
2026年11月現在は61歳2026年11月6日現在、渡辺久信は61歳です。
日刊スポーツでは2026年にも渡辺を客員評論家として紹介しており、3月には西武の開幕企画として担当記者とのオンライントークライブを実施。開幕投手や先発ローテーション、チーム編成について解説しました。
同年10月にも西武のクライマックスシリーズ進出に関するトーク企画が告知されており、野球評論家として活動を続けていることが確認できます。
現在の渡辺は現役選手でも西武のGMでもありません。選手としての経験と、長年の監督・編成経験を持つ野球評論家という立場です。
高校時代に速球で注目された青年が、プロ野球の現場と球団運営の両方を経験し、現在は評論家として野球界を見つめている。そのキャリアの変化も、渡辺久信という人物の大きな特徴です。
【よくある誤解】渡辺久信の若い頃について知っておきたい事実
渡辺久信の高校時代や現役時代には、数字や年代が混同されやすいポイントがあります。特に147キロと148キロ、ドラフト指名年と入団年は区別が必要です。
147キロと148キロは同じ大会の記録ではない147キロは高校1年夏の甲子園で本人が記録したと語っている数字です。一方、148キロは高校3年春の関東大会で記録したと本人が振り返っています。
2つの記録は別々の大会での出来事であり、同じ試合で記録したものではありません。
1983年ドラフト1位と1984年入団は矛盾しない1983年秋のドラフト会議で西武から1位指名を受け、1984年シーズンから西武の選手としてプレーしました。
ドラフト指名された年と、プロ選手として所属した年度を分ければ、年号の違いに混乱することはありません。
甲子園出場は高校1年夏の1回渡辺の甲子園出場は高校1年夏の1回です。高校3年春の関東大会優勝は甲子園ではなく、関東地区の高校野球大会での実績です。
この2つを混同すると、高校時代の経歴を正確に理解できなくなります。
【渡辺久信の若い頃】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:渡辺久信は高校時代に甲子園へ何回出場しましたか?
A1:前橋工業高校の1年生だった1981年夏の1回です。2回戦で京都商と対戦し、4対5でサヨナラ負けしました。この大会が本人にとって最初で最後の甲子園出場でした。
Q2:渡辺久信の高校時代の球速は147キロと148キロのどちらですか?
A2:本人のインタビューによると、1年夏の甲子園で147キロ、3年春の関東大会で148キロです。いずれも本人が振り返った高校時代の記録で、異なる大会での数字です。
Q3:渡辺久信はいつ西武に入団し、2026年現在は何をしていますか?
A3:1983年のドラフト1位で西武から指名され、1984年からプレーしました。2026年11月現在は61歳で、日刊スポーツの客員評論家として野球評論や解説活動を続けています。
渡辺久信の若い頃を振り返ると、前橋工業高校時代の圧倒的な速球と、プロ入り後に投手として成長を続けた過程が見えてきます。
高校1年夏の甲子園で147キロを記録し、高校3年春には関東大会で148キロを投げて優勝。全12球団のスカウトが注目する存在となり、1983年のドラフト1位で西武ライオンズに指名されました。
そしてプロ3年目の1986年には、16勝、178奪三振、勝率.727という圧倒的な成績で投手三冠を達成。1988年と1990年にも最多勝を獲得し、西武黄金時代を支える右腕となりました。
プロの視点で特に注目したいのは、渡辺の成功が高校時代の速球だけで決まったわけではないことです。リリーフ、先発、ストッパーと役割を変えながら経験を積み、厳しい指導環境の中で自分の投球を磨いたことが、1986年の飛躍につながりました。
2026年現在は野球評論家として活動する渡辺久信。若い頃の写真や高校時代の記録を振り返る際には、147キロの甲子園、148キロの関東大会、1983年ドラフト1位という3つの節目に注目すると、その人物像と成長の軌跡がより鮮明になります。
「ナベQ」の愛称で親しまれる元西武のエースは、単なる速球派投手ではありません。選手、監督、GM、評論家と立場を変えながら野球界に関わり続ける、その歩みこそが渡辺久信の大きな魅力です。