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【幼少期の真相】平野歩夢は新潟県村上市で兄の背中を追って育った

倉持 玲奈 倉持 玲奈 • 更新: • 公開: • 読了約 17 分
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平野歩夢の子供時代を語るうえで欠かせないのが、故郷である新潟県村上市と、3歳年上の兄・英樹の存在だ。

笹川スポーツ財団の競技史特集によると、平野歩夢は3兄弟の次男として生まれ、幼い頃から兄の滑りを見て育った。兄の英樹もスノーボードに取り組んでおり、歩夢は兄に追いつこうと練習を重ねていたという。

兄が先にボード競技に親しんでいたことは、歩夢にとって大きな刺激だった。最初からオリンピックを目指して英才教育を受けていたというより、身近な兄の姿を見て、自分も挑戦するようになったことが原点にある。

4歳でスケートボードとスノーボードを始めた歩夢にとって、ボードに乗ることは日常の延長だった。遊びとして始めた経験が、やがて世界のトップ選手と競う競技人生につながっていく。

兄・平野英樹もプロとして活躍するスノーボーダー

兄の英樹も優れた競技実績を持つ選手だ。日本テレビの特集では、長男の英樹が当時12歳でプロスノーボーダーになったことが紹介されている。

歩夢にとって兄は、単に一緒に遊ぶ家族ではなく、技術を身近で学び、追いかける目標でもあった。初めての海外遠征や国際大会など、幼少期から少年時代にかけて兄弟が同じ方向を向いていたことも、競技を続けるうえで大きな意味を持っていた。

また、弟の平野海祝もスノーボード選手として活躍。2022年北京五輪では歩夢とともに男子ハーフパイプに出場した。平野家は3兄弟がそれぞれボード競技に取り組む家庭として知られている。

【父親の支え】平野英功が800万円をかけて整えた練習環境

平野歩夢昔

平野歩夢の幼少期を理解するうえで、父・英功さんの存在も重要だ。

英功さんはもともとサーフィンに取り組んでいた人物で、息子たちが家の前でスケートボードを楽しむ姿を見て、ボード競技への関心を深めていった。やがて息子たちを本格的に応援することを決意し、練習環境づくりに乗り出した。

その象徴が、新潟県村上市に設けられた「日本海スケートパーク」だ。

2018年の平昌五輪後、日刊スポーツに寄せた手記で、英功さんは歩夢が3歳頃だった時期に、老朽化した市民体育館を借りて施設を改修した経緯を明かしている。整備にあたっては800万円の借金を抱えたという。

当時は現在のように地方でも充実したスケートボード施設を利用できる環境ではなかった。東京など遠方へ出向かなければ十分な練習場所を確保できない時代に、地元で練習できる場所をつくったことは大きな意味を持っていた。

車中泊や徒歩での雪山練習も経験

父の支援は施設づくりだけではなかった。

日刊スポーツの手記によると、英功さんは息子たちを県外の練習場所へ連れて行く際、交通費や宿泊費を節約するため、車中で1週間ほど過ごすこともあったという。息子たちの滑りを撮影するためのリフト代も惜しみ、父自身が歩いて雪山を登ったエピソードも紹介されている。

日本テレビの特集では、兄・英樹も、リフト券を買えずに歩いて山を登り、滑走を繰り返していた少年時代を振り返っている。

こうしたエピソードから見えてくるのは、単に恵まれた施設で練習を続けていたという話ではない。家族が限られた条件のなかで、練習時間と競技機会を確保しようとしていた姿だ。

父が用意した環境と、兄弟が積み重ねた反復練習。その両方が、歩夢の技術を育てる土台になった。

父の指導は技術面だけではなかった

父・英功さんは息子たちの練習に付き添い、技術を伝えるだけでなく、競技を通じた人間的な成長も願っていた。

英功さんは日刊スポーツへの手記で、歩夢に対して小さい頃から安易に「頑張れ」と声をかけることはなかったと説明している。本人が自分の状況を理解し、努力を続けていることを分かっていたからだ。

一方、歩夢自身も父の指導について、父が一生懸命に考えたことを直接伝えてくる姿勢に触れていた。新潟のテレビ局・テレビ新潟のインタビューでも、父が練習施設や技術習得の環境づくりに力を注いできたことが紹介されている。

父親が競技人生のすべてを決めたわけではない。選手本人の意思と、家族が用意した環境が重なったことが、平野歩夢の成長を支えたと考えられる。

【小学4年生で転機】バートンとのプロ契約が世界への扉を開いた

平野歩夢の少年時代における大きな転機が、スノーボードブランドのバートンとの契約だ。

バートンが公開した公式プロフィールムービーについて2013年に報じたFINEPLAYによると、歩夢は2008年、小学4年生でバートンとプロ契約を結んだ。

小学生の段階で世界的なスノーボードブランドと契約したことは、彼の才能が早くから競技関係者に認められていたことを示している。

この契約は単なるスポンサー獲得にとどまらなかった。海外の大会へ挑戦する機会が広がり、国内のジュニア選手という立場から、世界のトップライダーを目指す道が開けたのである。

2011年には海外大会へ進出

バートンとの契約後、歩夢は国内だけでなく海外にも活動の舞台を広げていく。

2011年にはアメリカのBURTON US OPENに出場し、海外デビューを果たした。FINEPLAYの当時の報道によれば、一般部門では準決勝進出には届かなかったものの、高いエアを披露して注目を集めた。

加えて、12歳以下を対象とするジュニアジャムでは2011年と2012年に連覇を達成。2012〜2013年シーズンにはフロントサイドダブルコーク1080を習得し、2013年の大会でも好成績を残した。

2013年にはワールドカップ初出場で初優勝を達成。15歳で迎えるソチ五輪を前に、すでに世界の有力選手として評価される存在になっていた。

【五輪の軌跡】15歳のソチ銀から平昌銀、北京金へ

少年時代に培った技術が、世界に広く知られるきっかけになったのが2014年のソチ冬季五輪だった。

平野歩夢は男子ハーフパイプで銀メダルを獲得。年齢は15歳74日で、スノーボード史上最年少のオリンピックメダリストとしてギネス世界記録にも認定された。

その後も2018年平昌五輪で銀メダル、2022年北京五輪では悲願の金メダルを獲得。北京大会では、難度の高いトリプルコーク1440を成功させ、日本人初となるスノーボード男子ハーフパイプの金メダリストとなった。

平野歩夢の競技人生・年代別年表
時期 出来事・関係者 主な実績・意味 1998年 新潟県で誕生 11月29日生まれ 4歳頃 兄・英樹、父・英功 スケートボードとスノーボードを始める 2008年 バートン 小学4年生でプロ契約 2011年 BURTON US OPEN 海外大会デビュー 2014年 ソチ冬季五輪 15歳74日で銀メダル 2018年 平昌冬季五輪 2大会連続の銀メダル 2021年 東京2020五輪 スケートボード男子パーク14位 2022年 北京冬季五輪 男子ハーフパイプ金メダル 2026年2月 ミラノ・コルティナ冬季五輪 男子ハーフパイプ7位・86.50点 2026年11月 今後の競技人生について発言 2030年五輪も視野に挑戦を継続する意向

出典:JOC、平野歩夢公式プロフィール、BURTON公式プロフィール映像に関する報道、デイリースポーツなど。

東京五輪ではスケートボードにも挑戦

平野歩夢の競技人生を特徴づけるのが、スノーボードとスケートボードの二刀流だ。

2021年に開催された東京2020五輪では、新競技として採用されたスケートボードの男子パークに出場。結果は14位だった。

スノーボードの世界トップ選手が、異なる競技の五輪代表を目指したこと自体が大きな挑戦だった。

日本大学のインタビューでは、スケートボードのパーク競技について、会場ごとにコースの設計やセクションが異なるため、同じ技でも環境によって実現の難しさが変わると説明している。

スノーボードで培った空中感覚や身体操作を生かしながら、別の競技に適応する必要があった。結果だけでなく、競技者として新しい可能性を追求した時期だった。

【2026年最新】ミラノ五輪7位の背景と現在の平野歩夢

2026年2月のミラノ・コルティナ冬季五輪で、平野歩夢は男子ハーフパイプに出場した。結果は86.50点で7位入賞。北京大会の金メダリストとして連覇を目指していたが、4大会連続のメダル獲得には届かなかった。

ただし、この結果には大会直前の大きなアクシデントが関係している。

1月のワールドカップで複数箇所を骨折

2026年1月17日、ワールドカップの大会で転倒した平野は、骨盤や鼻骨など複数箇所を骨折する大けがを負った。

オリンピック本番まで約1カ月という時期だったため、出場そのものが危ぶまれる状況に陥った。懸命なリハビリを重ね、骨折を抱えたままミラノ・コルティナ五輪への出場を実現した。

予選では85.50点を記録して7位で決勝に進出。決勝では2回目にダブルコーク1620を決め、86.50点をマークした。最終3回目は転倒し、順位を上げることはできなかった。

JOCの公式記録でも、最終順位は7位、記録は86.50点とされている。

7位という結果以上に注目された復帰への挑戦

平野は大会後のインタビューで、けがによる不安や恐怖があったことを明かした。一方、自分の状態でできる限りの挑戦ができたことについて、悔いなく自分自身と向き合えたという趣旨の振り返りをしている。

2026年3月のJOC関連報道でも、次の4年間に向けて再び戦う意欲を示した。目指すのは、単に過去の成績を守ることではなく、次の大会で自分のピークを持っていくことだ。

そして、2026年11月4日付のデイリースポーツの単独インタビューでは、今後の競技人生について、さらに踏み込んだ考えを明かしている。

「行けるところまで行き切って終わりたい」

デイリースポーツ、2026年11月4日付インタビューより

同インタビューでは2030年冬季五輪も視野に入れ、1年ずつ競技生活を積み重ねていく考えを示した。スノーボード以外のフィールドにも挑戦したいという意欲にも触れている。

2026年11月現在、27歳。ミラノ五輪での7位をキャリアの終わりと捉えるのではなく、新たな挑戦につなげようとしている。

【昔の写真・映像】幼少期の平野歩夢を確認できる資料は?

平野歩夢の昔の写真を探している人にとって、参考になるのは幼少期から少年時代の競技歴を記録した公式映像や、当時の大会報道だ。

特に注目したいのが、2013年12月に紹介されたバートンの公式プロフィールムービー「THE STORY OF AYUMU HIRANO」。4歳で兄とスノーボードを始めた時期から、小学4年生での契約、海外大会への進出まで、成長の軌跡をたどる映像として制作された。

また、平野歩夢の公式サイトでは、公式ドキュメンタリー「AYUMU」が公開されている。2026年1月にはドキュメンタリーの告知があり、4月15日には特別編第2弾が公開された。

昔の姿を確認するなら、こうした公式映像や、JOC、日本テレビ、スポーツ専門メディアの過去の特集を参考にするとよい。写真の掲載時期や大会名、撮影者の情報まで確認することで、幼少期の写真と別の時期の写真を混同しにくくなる。

特に小学生時代の姿と、ソチ五輪で注目された15歳当時の姿は大きく異なる。写真を比較するときは、撮影年と競技大会を確認することが大切だ。

ネットで見かける情報と公表記録の違い

平野歩夢の昔について調べる際、混同されやすいポイントを整理しておきたい。

- ソチ五輪の銀メダル: 15歳74日で獲得した。15歳でのメダル獲得という記録が正確。
- バートンとの契約: 小学4年生だった2008年。オリンピック出場後に契約したわけではない。
- 東京五輪: スケートボード男子パークに出場したが、結果は14位。メダル獲得ではない。
- 北京五輪: スノーボード男子ハーフパイプで金メダルを獲得した。
- ミラノ五輪: 2026年は7位入賞。メダル獲得ではないが、直前の骨折を経て決勝まで進んだ。

また、平野歩夢の幼少期のエピソードは、本人や父親の手記、競技団体のプロフィール、当時の報道を中心に確認することができる。出所が明らかでない写真や、本人の発言と確認できないSNS上の文章を、実際の思い出として扱わないことも大切だ。

【平野歩夢の昔】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:平野歩夢は何歳からスノーボードを始めた?

A1:4歳から始めた。兄・英樹の影響を受け、スケートボードとスノーボードの両方に親しんでいた。幼少期からボード競技が身近にある環境で育った。

Q2:平野歩夢の兄は誰?父親はどんな人?

A2:兄はプロスノーボーダーとしても活動する平野英樹。父親は英功さんで、息子たちの練習環境を整えるため、村上市に日本海スケートパークを設立した人物。800万円の借金をして施設を改修したエピソードも知られている。

Q3:平野歩夢は小学4年生で何をした?

A3:2008年、小学4年生でスノーボードブランドのバートンとプロ契約を結んだ。2011年にはBURTON US OPENに出場し、海外大会にも活動の場を広げた。

Q4:平野歩夢はソチ五輪で何歳だった?

A4:2014年のソチ冬季五輪では15歳74日だった。男子ハーフパイプで銀メダルを獲得し、スノーボード史上最年少のオリンピックメダリストとしてギネス世界記録に認定された。

Q5:平野歩夢の2026年ミラノ五輪の結果は?

A5:男子ハーフパイプで7位、86.50点だった。大会約1カ月前に複数箇所を骨折する大けがを負いながら決勝に進出した。2026年11月のインタビューでは2030年冬季五輪も視野に競技を続ける意向を示している。

平野歩夢の競技人生を幼少期から振り返ると、世界的な選手になるまでの道筋には、いくつもの重要な転機があった。

4歳で始めたスケートボードとスノーボード、先を走る兄・英樹の存在、父・英功さんが整えた練習環境。そして小学4年生でのバートンとのプロ契約。これらが重なり、少年時代から世界の大会に挑戦できる基盤がつくられた。

その後、15歳でソチ五輪銀メダル、平昌五輪銀メダル、北京五輪金メダルと、世界の頂点へと歩みを進めた。東京五輪ではスケートボードにも挑戦し、2026年のミラノ・コルティナ五輪では大けがを乗り越えて7位入賞を果たした。

プロの視点から注目したいのは、平野歩夢の強さを生まれ持った身体能力だけで説明できないことだ。幼い頃から競技に触れられる環境、身近な目標となった兄、家族による練習機会の確保、早い段階での海外経験。この積み重ねが、世界で戦える選手を育てた。

2026年11月現在、平野歩夢は次の4年間を見据えている。幼少期に兄の背中を追って始めた挑戦は、北京五輪の金メダルを経ても終わっていない。

昔の写真や映像から見えてくるのは、完成されたスター選手の姿ではなく、家族とともに一歩ずつ成長してきた一人の少年の姿だ。その原点を知ることが、平野歩夢という選手をより深く理解する手がかりになる。

主な参考資料:日本オリンピック委員会(JOC)、平野歩夢公式サイト、笹川スポーツ財団、日刊スポーツ、日本テレビ、FINEPLAY、日本大学、テレビ東京、デイリースポーツ(2026年11月4日)。

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倉持 玲奈

テクノロジー分野を担当。一次情報(公式発表・公式サイト)と発表日を必ず確認し、推測は推測と明記する編集方針に従っています。

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