佐治一成(さじ・かずなり)は、尾張国知多半島の大野城を本拠とした戦国武将で、浅井三姉妹の末娘・お江(崇源院)の最初の夫として知られる人物だ。ところが、その婚姻は1583年に実際に大野へ輿入れしたのか、それとも幼少期に結ばれた縁組・婚約だったのか、歴史研究上も見解が分かれている。
一成の生涯を理解する鍵は、父・佐治信方から受け継いだ伊勢湾の海上勢力、織田信雄・徳川家康と豊臣秀吉の対立、そして小牧・長久手の戦い後の大野城退去にある。常滑市の公式観光資料、大学図書館の歴史展示、系図資料をもとに、妻や子孫、出家後の号「巨哉」の読み、1634年の最期までを整理する。
【人物像】佐治一成とは何者か?生涯と大野城主としての経歴

佐治一成は、戦国時代から江戸時代前期にかけて生きた尾張の武将である。通称は佐治与九郎。佐治氏の四代目当主として、大野城を拠点に知多半島西部の勢力を率いた。
常滑市の公式資料によれば、一成は永禄12年(1569年)、三代目城主・佐治信方の嫡男として生まれた。父の死後、若くして家督を継いだとされる。
一成が歴史上注目される理由は、お江との婚姻だけではない。佐治氏が持っていた海上交通の支配力と、織田・豊臣・徳川という三つの勢力が争った時代に、その立場が大きく揺れ動いたことにある。
佐治一成の基本プロフィール- 名前:佐治一成(さじ・かずなり)
- 通称:佐治与九郎
- 生年:永禄12年(1569年)とされる
- 没年:寛永11年(1634年)
- 父:佐治信方
- 弟:中川秀休(秀休)
- 居城:尾張国・大野城
- 主な関係者:お江、豊臣秀吉、織田信雄、織田信包、徳川家康
- 出家後の号:巨哉
一成の生涯は、大野城主としての時代、秀吉との政治的対立、織田信包の家臣となった時代、そして晩年の京都生活という流れで捉えると理解しやすい。
- 永禄12年(1569年):佐治信方の嫡男として誕生したとされる。
- 元亀2年(1571年):父・信方が伊勢長島の戦いで討死したと伝わる。
- 天正11年(1583年):常滑市の観光資料では、お江が一成のもとへ嫁いだ年とされる。
- 天正12年(1584年):小牧・長久手の戦い。秀吉と家康の対立に巻き込まれ、大野城を失ったと伝わる。
- その後:伯父・織田信包に仕え、伊勢や丹波方面で活動したとされる。
- 慶長17年(1612年)ごろ:於振との再婚が伝えられる。
- 寛永11年(1634年):京都で死去したと系図資料に記されている。
なお、生年や没年、婚姻時期には史料による違いがある。とりわけお江との婚姻は、一成の生涯を考えるうえで重要な論点となっている。
【家系図】佐治信方との親子関係と佐治氏水軍の実力
佐治一成を理解するには、父・佐治信方と、その前の世代から続く大野佐治氏の歴史を押さえておきたい。
佐治氏四代の系譜常滑市の歴史紹介資料では、大野城を拠点とした佐治氏は、次の四代にわたって続いたと説明されている。
- 初代:佐治駿河守宗貞
- 二代:佐治上野守為貞
- 三代:佐治八郎信方
- 四代:佐治与九郎一成
この系譜によれば、一成は佐治信方の嫡男であり、大野城主の地位を引き継いだ人物である。
信方は織田信長の妹・於犬(お犬の方)を正室に迎えたと伝えられる。信長と佐治氏の関係は単なる主従関係にとどまらず、婚姻によっても結び付いていた。
信方は元亀2年(1571年)の伊勢長島の戦いで討死したとされる。常滑市の資料では22歳だったと紹介されている。一成には弟の秀休がおり、後に中川姓を名乗って中川秀休として活動した。
佐治氏の家系と織田家との関係佐治氏の家系を考える際に重要なのは、織田家との親族関係である。
父・信方と織田信長の妹・於犬の婚姻によって、佐治氏は織田家と縁戚関係を持った。信方の死後も、その関係を維持することは織田家にとって政治的な意味を持っていたと考えられる。
神戸女子大学図書館の歴史展示では、信方の死後、於犬が佐治家を離れたことを踏まえ、織田家と佐治家の関係を維持するために、お江と一成の縁組が進められたという見方が紹介されている。
この説明は、お江と一成の婚姻が豊臣秀吉の思いつきだけで始まったものではなく、織田家と知多半島の有力領主との関係から生まれた可能性を示している。
佐治氏水軍はなぜ重要だったのか佐治氏を語るうえで欠かせないのが、佐治氏水軍である。
大野は伊勢湾に面した港町で、尾張・三河・伊勢を結ぶ海上交通の要衝だった。陸路だけでなく、船による人員や物資の移動が軍事・経済の両面で大きな意味を持っていた時代である。
常滑市の公式解説も、大野城が一色氏や佐治氏の居城となり、佐治氏が伊勢湾の海上交通を掌握していたことを紹介している。
佐治氏の水軍力は、単に船を所有していたという話ではない。港の管理、海上輸送、沿岸地域との連携を含めた地域支配の基盤だった。
織田信長が佐治氏との婚姻関係を結んだ背景にも、こうした海上勢力の重要性があったと考えられる。陸上の城を押さえるだけでは確保できない海の交通路を、佐治氏が担っていたからだ。
【婚姻の真相】お江の最初の夫は佐治一成?離縁理由を検証
佐治一成の名前が広く知られるようになった最大の理由は、浅井長政とお市の方の三女であるお江との関係だ。
お江は後に徳川二代将軍・秀忠の正室となり、三代将軍・家光の母となった女性である。一般には、佐治一成が彼女の最初の夫として紹介されている。
お江は1583年に大野城へ嫁いだのか常滑市の公式観光案内では、お江は天正元年(1573年)生まれで、天正11年(1583年)に佐治一成の妻として大野の地に訪れたと説明されている。この説明に従えば、お江は10歳だったことになる。
一方、婚姻の実態については別の見方もある。
神戸女子大学図書館が公開する江に関する歴史展示では、天正2年(1574年)ごろ、信長の妹・於犬と佐治信方の関係を維持するため、お江と一成の縁組が計画されたという説を紹介している。この段階でお江はまだ乳児だったという。
さらに同展示は、佐治一成との関係が実際の婚姻だったのか、それとも婚約にとどまったのかについて諸説があると整理している。
つまり、次の二つは区別して考える必要がある。
- 縁組の成立:織田家と佐治家の関係を維持するため、幼少期に婚約が決まったという説。
- 実際の婚姻・輿入れ:1583年に大野へ嫁いだとする常滑市の観光案内上の説明と、実際には大野へ移らなかったとする研究上の見方がある。
このため、「お江の最初の夫は佐治一成」という表現は広く定着しているものの、現代の結婚と同じ意味で婚姻生活を送ったと断定することはできない。
佐治一成とお江の離縁理由は何だったのか一般に伝えられる離縁の理由は、佐治一成が小牧・長久手の戦いで徳川家康側に関係したため、豊臣秀吉の不興を買ったことである。
天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の対立が軍事衝突に発展した。大野城主の一成は、織田信雄との関係を持つ立場から、家康方に味方したと説明されている。
秀吉にとって、伊勢湾の海上交通を押さえる佐治氏は無視できない存在だった。お江との縁組が政治的な意味を持っていたのであれば、一成の立場が変化したことで婚姻関係にも影響が及んだという説明には一定の合理性がある。
常滑市の観光解説でも、家康方についた一成に秀吉が激怒し、お江と離縁させたという経緯が紹介されている。
ただし、婚姻自体が婚約にとどまった可能性も指摘されているため、離縁という言葉が実際の夫婦関係の解消を意味したのか、政治的な縁組の破棄を意味したのかは慎重に考える必要がある。
お江はその後、誰と結婚したのか佐治一成との縁組が解消された後、お江は豊臣秀吉の甥で養子となった羽柴秀勝と結婚したとされる。その後、秀勝の死を経て、文禄4年(1595年)に徳川家康の三男・徳川秀忠の正室となった。
秀忠との婚姻によって、お江は徳川将軍家の御台所となる。慶長9年(1604年)には後の三代将軍・徳川家光が生まれた。
一成との縁組は短期間で終わったと伝えられる一方、お江はその後、豊臣家と徳川家の双方に関係する重要な立場へと進んでいった。
【政治的転換点】小牧・長久手の戦いと豊臣秀吉、大野城退去の真相
佐治一成の運命を大きく変えたのが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いである。
この戦いは、織田信長の死後に生まれた政治的な空白を背景に、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄が対立した戦いだった。
一成は織田家と縁戚関係を持ち、知多半島の海上勢力を率いる立場にあった。そのため、どちらの勢力と結び付くかは、大野城の支配を左右する重大な問題だった。
一成が大野城を退去するまでの経緯常滑市の資料や系図資料などから整理できる主な転換点は、次のとおりだ。
| 時期 | 出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1583年 | お江との縁組・婚姻が伝えられる | 織田家と佐治家の関係を示す政治的な結び付き |
| 1584年 | 小牧・長久手の戦い | 秀吉と家康・信雄の対立に佐治氏も巻き込まれる |
| 戦後 | 大野城の支配を失う | 佐治氏の大野城主としての時代が終わる |
| その後 | 織田信包の家臣となる | 伊勢方面などで活動を続けたとされる |
| 慶長17年ごろ | 於振との再婚が伝わる | 一成の後半生における家族関係の変化 |
| 1634年 | 京都で死去 | 佐治一成の生涯が終わる |
一成の大野城退去については、佐屋の渡しに関する逸話がよく知られている。
この話では、小牧・長久手の戦いの後、徳川家康が三河へ帰陣する際、一成が船を提供して便宜を図ったことが秀吉の怒りを招いたとされる。
海上交通を掌握する佐治氏にとって、船の提供は軍事的にも政治的にも意味を持つ行動だった。秀吉から見れば、敵対する家康への協力と受け止められた可能性がある。
しかし、佐治氏の没落をこの逸話だけで説明するのは難しい。
角川日本地名大辞典の解説を掲載するJLogosでは、一成の所領没収について、家康方についたため秀吉に処分されたという説のほか、織田信雄の家臣・岡田長門守に味方したことなどを背景に大野城が失われたという別の説も紹介している。
また、同解説では天正12年ごろの織田信雄分限帳に大野村の領主として渡辺大膳の名が見られ、佐治氏の名前が確認できなくなっていることにも触れている。
こうした記録からは、佐治氏の退去が一度の軍事行動だけでなく、小牧・長久手の戦い後の領地再編や政治的な勢力変化と関係していた可能性が考えられる。
豊臣秀吉と佐治一成の関係をどう見るべきか秀吉と一成の関係は、単純な個人的対立ではなく、伊勢湾の海上交通をめぐる政治的な駆け引きとして捉える必要がある。
秀吉が勢力を拡大する過程では、各地の有力国衆や水軍勢力を自らの支配体制に組み込むことが重要だった。大野の佐治氏も、その対象となり得る存在だった。
一方、家康や信雄とつながる佐治氏には、独自の政治的判断が求められた。戦況や同盟関係が変化すれば、従来の主従関係や婚姻による結び付きも維持できなくなる。
一成の大野城退去は、戦国末期に在地領主が中央権力の再編に巻き込まれた事例として見ることができる。
現在の大野城はどうなっているのか一成が退去した後の大野城には、織田長益(有楽斎)が城主として入ったとされる。その後、水利などの事情から北側の大草城の築城が進められ、大野城は廃城になったという。
現在の城跡は、愛知県常滑市の城山公園として整備されている。城を模した展望台からは伊勢湾や中部国際空港方面を見渡すことができる。
常滑市は、お江ゆかりの地として大野城を紹介しており、周辺には大野町の歴史を感じられる散策スポットも残されている。
かつて佐治氏が海上交通を掌握した場所を訪れると、一成の運命を左右した港町の地理的な重要性が見えてくる。
【晩年と家族】佐治一成の妻・子孫・巨哉の読み方・最期と死因
大野城を失った一成は、その後も武将としての人生を続けたとされる。お江との縁組だけが彼の人生ではなく、後年には別の妻を迎え、子孫につながる家系も残した。
佐治一成の妻は誰だったのか一成の妻として知られる人物には、お江のほか、後年に結婚した女性たちがいる。
常滑市の歴史紹介資料によれば、一成はお江との離縁後、織田信包の家臣となり、後に渡辺小大膳の娘と再婚したとされる。
この女性との間には、一男三女が生まれたという。系譜資料によれば、嫡男の為成は一成の弟・中川秀休の養子となった。
加えて、慶長17年(1612年)ごろには、於振との再婚も伝えられている。於振は織田信長と側室・お鍋の方の娘として知られる人物で、水野忠胤に嫁いだ経歴を持つ。
ただし、於振との婚姻後に一成との間に子どもが生まれたかどうかについては、確実な情報が十分にそろっていない。
佐治一成の子孫は現在まで続いているのか佐治一成の子孫については、系図資料に具体的な記載がある。
特に重要なのは、嫡男・為成の存在だ。為成は一成の弟である中川秀休の養子となり、中川家の家督を継いだとされる。
このことから、一成の子孫を調べる際には、佐治姓だけでなく中川姓の家系にも目を向ける必要がある。
また、系図には一成の娘たちについても、加賀の家臣などへの婚姻関係が記されている。
ただし、現在の子孫がどこに何人いるのか、現代までの家系がどのようにつながっているのかを、公開資料だけで一貫して確認することは難しい。確認できるのは、少なくとも一成に一男三女がいたとする常滑市の紹介資料と、為成の養子縁組を記した系図の存在である。
出家後の号「巨哉」は何と読む?佐治一成を調べる人が疑問に感じやすいのが、出家後の号である「巨哉」の読み方だ。
『系図総覧』に収録された佐治系図には、一成が後に剃髪して巨哉と号したことが記されている。また、戒名は「長徳院殿快岩巨哉居士」とされる。
しかし、国立国会図書館のレファレンス協同データベースに登録された県立長野図書館の調査事例によれば、巨哉の正式な読み方は確認できていない。
同事例では、二つの読み方に関係する資料が紹介されている。
- 「きょさい」:服部徹著『信長の残照』で巨哉に「きょさい」のルビが付されている。ただし、小説であり、読みの根拠となる出典は示されていない。
- 「こ」:瀧田英二著『常滑史話』では、享年の記述箇所に「巨」の字へ「こ」というルビが付されている。ただし、こちらも出典は記されていない。
したがって、検索結果などで「巨哉(きょさい)」と紹介されることはあるものの、歴史資料によって確定した読み方とはいえない。
また、号の表記そのものは系図に確認できるため、読み方の問題と、号が実際に使われていたかどうかという問題は分けて考える必要がある。
佐治一成の最期はいつ?死因は病死だったのか佐治一成の最期については、『系図総覧』の佐治系図が重要な手掛かりとなる。
同系図によれば、一成は寛永11年9月26日(1634年11月16日)に亡くなった。死亡地は京都で、病死と記されている。
つまり、具体的な病名や病状までは分からないものの、伝来する系図では京都で病気によって亡くなったとされている。
享年については、資料によって65歳と66歳の違いがある。常滑市の歴史紹介資料では65歳、系図資料では66歳と記されている。
これは1569年生まれという生年を前提に、満年齢と数え年の違いを考えると理解できる。満年齢では65歳、数え年では66歳となるため、必ずしも矛盾とは限らない。
一成の墓については、京都の龍安寺に関係する記録が伝わっている。系図資料には、戒名とともに京都で病死したことが記載されている。
大野城主としての地位を失った後も、一成は織田家との関係を保ち、後年まで生きた。戦国の動乱を生き抜き、江戸時代初期に京都で生涯を終えた人物だった。
Q1:佐治一成はお江の最初の夫だったのですか?
A1:一般には、お江の最初の夫として紹介されている。ただし、実際に婚姻生活を送ったのか、幼少期の婚約にとどまったのかについては諸説がある。常滑市の観光案内では1583年に嫁いだと説明されている。
Q2:佐治一成とお江が離縁した理由は何ですか?
A2:小牧・長久手の戦いで一成が家康方に関係し、豊臣秀吉の不興を買ったためと伝えられている。ただし、婚姻の実態そのものにも議論があり、離縁の具体的な経緯についても慎重な解釈が必要となる。
Q3:佐治一成の子孫は誰ですか?
A3:常滑市の歴史資料では、渡辺小大膳の娘との間に一男三女をもうけたとされる。嫡男の為成は弟の中川秀休の養子となった。現代までの子孫の全容は公開資料だけでは確認できない。
Q4:佐治一成の出家後の号「巨哉」は何と読みますか?
A4:「きょさい」とする小説のルビや、「こ」とする郷土史のルビがある。しかし、国立国会図書館のレファレンス協同データベースでも正式な読み方は確認できていない。
Q5:佐治一成の死因は何ですか?
A5:『系図総覧』の佐治系図には京都で病死したと記されている。寛永11年(1634年)9月26日が命日とされるが、具体的な病名は確認されていない。
Q6:現在の大野城はどこにありますか?
A6:愛知県常滑市金山にある城山公園が大野城跡にあたる。城型の展望台が整備され、伊勢湾を望むことができる。お江や佐治氏に関係する歴史散策の場所としても知られている。
佐治一成は、お江の最初の夫という一つの肩書きだけでは語り尽くせない戦国武将である。
父・佐治信方から大野城主の地位を受け継ぎ、伊勢湾の海上交通を掌握する佐治氏の四代目として活動した。織田家との縁戚関係を持ち、お江との縁組もその政治的な背景の中で生まれたと考えられている。
しかし、小牧・長久手の戦いによって豊臣秀吉と徳川家康の対立が激化すると、一成は政治的な立場を失い、大野城を退去することになった。
その後は織田信包の家臣となり、別の妻との間に子孫を残し、晩年には出家して巨哉と号した。寛永11年(1634年)、京都で病死したと伝わる。
【プロの結論】
佐治一成の歴史を正確に理解するための判断基準は、三つある。
- 第一に、お江との婚姻は「縁組」と「実際の輿入れ」を分けて考えること。1583年の婚姻を紹介する常滑市の説明と、婚約にとどまった可能性を示す研究を併せて読む必要がある。
- 第二に、大野城退去は秀吉個人の怒りだけで説明しないこと。佐治氏水軍の戦略的価値、織田信雄と徳川家康の同盟、戦後の領地再編という複数の要素が関係している。
- 第三に、家系図の記載と後世の伝承を区別すること。子孫や戒名、没年については系図資料が手掛かりになる一方、巨哉の読みや婚姻の詳細には確定していない部分が残る。
2026年現在も、常滑市の大野城跡は佐治氏とお江の歴史を伝える場所として整備されている。城山公園から伊勢湾を眺めると、一成が生きた時代に海上交通がどれほど大きな政治的価値を持っていたのかが分かる。
佐治一成の生涯は、戦国時代の武将が婚姻、軍事、海運、領地支配という複数の政治的要素に左右されながら生きたことを示す、知多半島の重要な歴史の一幕である。
主な照合資料: 常滑市公式「『江』ごう ゆかりの地を訪ねる」、常滑市発行の歴史紹介資料、神戸女子大学図書館の江に関する展示、国立国会図書館レファレンス協同データベース、角川日本地名大辞典(JLogos掲載)。