1968年12月10日に東京都府中市で発生した三億円事件。その象徴として知られるのが、白いヘルメットをかぶった若い男性のモンタージュ写真です。事件発生から11日後の1968年12月21日に公開されたこの写真は、全国に広まり、多くの人が「犯人の顔」として記憶することになりました。しかし、後年の報道によって、写真の顔は犯人本人ではなく、事件とは無関係の実在男性のものだったと明らかになっています。
加えて、写真のモデルとされた男性、当時19歳だった少年S、捜査に参加した平塚八兵衛の判断には、それぞれ異なる背景があります。1971年の捜査方針の転換、1974年12月のモンタージュ写真の正式破棄、そして2026年のNHK「未解決事件」による新証言と捜査資料の再検証まで、半世紀以上にわたる経緯を整理します。
【結論】三億円事件のモンタージュ写真は誰の顔?犯人本人ではなかった

最初に押さえておきたいのは、1968年に公開されたモンタージュ写真の男性が、三億円事件の犯人だと確認された事実はないということです。
後年の報道によれば、写真の基礎になったのは、事件発生前にすでに事故で亡くなっていた実在男性の顔写真でした。ヘルメットやマスクなどを加えた写真が、犯人の手配写真として全国に公開されたとされています。
写真のモデルは実在した無関係の男性この写真の正体について、重要な取材を行ってきた人物の一人が、長年三億円事件を追跡してきたジャーナリストの近藤昭二氏です。
2021年7月、テレビ東京の番組「じっくり聞いタロウ」で近藤氏が紹介した取材内容によれば、モンタージュ写真は一般的な意味での顔のパーツを組み合わせた合成写真ではなく、実在男性の写真を基礎にしたものでした。
加えて、その男性は事件の約1年半前にはすでに亡くなっていたと説明されています。
つまり、写真に写っている人物と、実際に現金輸送車を奪った犯人は同一人物ではありません。
モデルの実名は公表されている?ここは混同されやすい部分です。
2026年のNHK「未解決事件」の放送内容でも、モンタージュ写真に使われた男性は事件と無関係の人物として紹介されています。しかし、一般に確認できる番組紹介や主要報道では、その男性の実名や詳細なプロフィールは明らかにされていません。
写真のモデルが実在したことと、その人物の身元が広く公表されていることは別問題です。
また、少年Sの写真をそのまま犯人写真にしたという説明も正確ではありません。報道されている関係は、少年Sに似ているとされた別の男性の写真が利用されたというものです。
この違いを理解することが、三億円事件のモンタージュをめぐる誤解を解く第一歩になります。
【公開までの経緯】1968年12月21日に何が起きた?事件発生から写真公開まで
モンタージュ写真が公開された背景には、事件直後の警察の強い危機感がありました。
1968年12月10日午前9時20分ごろ、東京都府中市で日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車が襲われます。
車に積まれていたのは、東芝府中工場の従業員に支給される予定だった冬のボーナス、約2億9430万円でした。
白バイ警官を装った男は、現金輸送車を停止させ、車体の下から白煙が上がると、爆発の危険を知らせるような言葉を発しました。
銀行員たちが車から離れた隙に、男は輸送車に乗り込み、そのまま逃走します。
犯行に要した時間は約3分。銃器を使用したり、銀行員に直接暴力を振るったりすることなく、大金を奪い去った事件として社会に大きな衝撃を与えました。
事件発生から11日後に公開された写真事件当日、府中署には特別捜査本部が設置されました。
警察は犯人の行方を追う一方、現場の目撃証言や遺留品を手がかりに捜査を進めます。
そして、事件発生から11日後の12月21日、問題のモンタージュ写真が公開されました。
フジテレビの「新証言!三億円事件」の事件年表にも、この公開日が記録されています。
当時は写真による公開捜査が重要な情報収集手段でした。警察としては、犯人の顔を広く知らせ、市民からの情報提供を集める狙いがあったと考えられます。
しかし、この写真は後に大きな問題を抱えていたことが明らかになります。
なぜ写真の公開を急いだのか事件直後の捜査では、現場の銀行員4人の証言が重要視されました。
ところが、犯人は白いヘルメットやマスクを着用していたとされ、事件当日は雨も降っていました。
フジテレビの事件検証番組では、事件発生時に25ミリを超える雨が降っていたことや、銀行員以外にも事件の全体を目撃した人物がいたことが取り上げられています。
こうした状況では、犯人の顔を正確に記憶すること自体が容易ではありません。
それにもかかわらず、事件直後に浮上した特定人物への印象が、写真作成に強く影響したと後年の取材で指摘されるようになりました。
【人物相関と関係者一覧】写真のモデル・少年S・平塚八兵衛の関係
三億円事件のモンタージュを理解するには、関係する人物を区別する必要があります。
とりわけ重要なのが、写真のモデルとなった男性、警察が当初注目した少年S、そして捜査の途中から参加した平塚八兵衛です。
| 人物・組織 | 事件との関係 | 判明している事実 |
|---|---|---|
| モンタージュ写真のモデル | 写真の顔の基礎 | 事件前に事故死した無関係の男性と報道 |
| 少年S | 初期捜査の重要人物 | 当時19歳。事件との確かな関与は認められていない |
| 銀行員4人 | 現金輸送車に同乗 | 初期の犯人像形成に関わる目撃証言を提供 |
| 平塚八兵衛 | 警視庁捜査一課の刑事 | 1969年4月に捜査へ参加。モンタージュの信頼性を疑問視 |
| 府中署特別捜査本部 | 事件の捜査組織 | 大規模な捜査と情報収集を実施 |
| 近藤昭二 | 事件を追ったジャーナリスト | 写真のモデルをめぐる取材・報道を展開 |
| NHK「未解決事件」取材班 | 2026年の再検証 | 捜査資料と関係者の証言を再調査 |
この相関関係で特に注意したいのは、少年Sと写真のモデルは別人だという点です。
少年Sが捜査線上に浮かんだことが写真作成の背景にあったとされますが、写真に写っていた男性が少年S本人だったわけではありません。
また、平塚八兵衛が少年Sを犯人と認定したという理解も正確ではありません。2026年のNHK番組の紹介では、平塚は少年Sについて事件とは関係がないと判断したことが伝えられています。
【誤認された理由】1971年の方針転換と1974年のモンタージュ写真破棄
三億円事件のモンタージュ写真が犯人本人の顔として長年記憶された理由は、写真の作成方法だけではありません。
公開後の大規模な情報提供活動と、写真が長く使われ続けたことも関係しています。
1969年には55万枚の手配書を作成事件発生から約半年後の1969年5月、警視庁府中署の特別捜査本部は、遺留品などを掲載したカラー手配書を作成しました。
その規模は次のとおりです。
- 作成枚数:約55万枚
- 配布対象:三多摩地区の約65万世帯
- 戸別配布:約7割の世帯
- 街頭掲示:約10万枚
- 掲載内容:モンタージュ写真、現金、車両、発煙筒など20品目
当時の読売新聞の紙面を参照したマイナビ介護のみらいラボの記事でも、この大規模なポスター作戦が紹介されています。
モンタージュ写真は手配書の中央に配置されました。
多くの家庭や街頭で繰り返し目にすることで、写真の男性は事件の象徴として定着していきます。
1971年には捜査方針が転換ところが、捜査が進んでも写真に結びつく有力な情報は得られませんでした。
1971年には、犯人がモンタージュ写真に似ていなくてもよいという方向へ、捜査方針が転換されたとされています。
これは単なる手配方法の変更ではありません。
それまで写真に似た人物を探すことに重点が置かれていた捜査を、写真の印象に縛られず、別の特徴や物証から犯人を追う方向へ修正する意味がありました。
本来、モンタージュ写真は目撃者の記憶を視覚化するための捜査資料です。写真そのものを犯人の確定的な顔として扱うものではありません。
警察庁の1973年版警察白書にも、一般的なモンタージュ写真は、目撃者などの記憶をもとに複数の顔写真から特徴を選び、犯人に似た顔を合成するものだと説明されています。
1974年12月、写真は正式に破棄された1971年の方針転換後も、写真に対する疑問は残りました。
そして1974年12月、モンタージュ写真は正式に破棄されました。
この経緯は2025年12月10日付の文春オンラインの記事でも取り上げられています。
つまり、事件の象徴として知られる写真は、1975年の公訴時効成立より約1年前に、すでに捜査上の信頼性を失っていたのです。
なぜ破棄後も犯人写真として使われ続けたのかここに、この事件の大きな情報伝達上の問題があります。
写真は一度世間に広まると、正式に破棄されたからといって、人々の記憶から消えるわけではありません。
加えて、書籍やテレビ番組などで事件を紹介する際、視覚的に分かりやすい象徴的な写真として使われ続けました。
その結果、1974年に捜査資料としての役割を終えた写真が、一般社会では現在も「三億円事件の犯人の顔」として流通するという逆転現象が生まれたのです。
写真の知名度と、写真の証拠としての信頼性はまったく別のものだったという点が重要です。
【少年Sと平塚八兵衛】初動捜査の迷走と犯人像をめぐる疑問
三億円事件のモンタージュをめぐる話題で、必ず登場するのが少年Sと平塚八兵衛です。
この2人の関係を理解すると、なぜ写真の信頼性に疑問が生まれたのかが見えてきます。
少年Sはなぜ捜査対象になったのか少年Sは事件当時19歳で、警察が初期段階から注目していた人物でした。
報道によれば、Sには非行歴があり、地元の土地勘もあったとされています。また、父親は警視庁の白バイ隊員だったと伝えられています。
現場の銀行員4人がSに似ているという趣旨の証言をしたことも、捜査上の注目につながりました。
しかし、Sは事件発生から5日後の1968年12月15日に死亡しました。青酸カリによる中毒死と報じられています。
この急死がさまざまな推理や疑惑を生むきっかけになりました。
一方、少年Sが事件の犯人だったと確定する証拠はありません。
2021年のテレビ東京の取材記事でも、少年Sを犯人とする見方はジャーナリストによる推理として紹介され、決定的な証明には至っていないことが示されています。
平塚八兵衛はモンタージュを疑っていた平塚八兵衛は、帝銀事件や吉展ちゃん誘拐殺人事件などを担当したことで知られる警視庁の刑事です。
三億円事件の捜査には、1969年4月24日に投入されました。
当初の捜査方針や遺留品の扱いを検証する中で、平塚はモンタージュ写真の信頼性にも疑問を持っていたとされています。
特に問題だったのは、目撃証言そのものの確実性です。
犯人はヘルメットやマスクを着用し、事件当日は雨が降っていました。銀行員がどの程度、犯人の顔を正確に見ていたのかは、犯人像を構築するうえで避けて通れない問題でした。
2026年のNHK番組の放送内容でも、銀行員の中に、実際には犯人の顔を見ていなかったにもかかわらず、見たと説明していた人物がいたことが取り上げられています。
2026年5月には平塚八兵衛の当時の証言も再注目2026年5月1日、新潮QUEは「三億円事件」特別捜査本部と平塚八兵衛の初動捜査をめぐる記事を掲載しました。
これは、1972年9月2日号の「週刊新潮」に掲載された平塚の特集をもとに再構成したものです。
事件発生から約4カ月後に捜査へ参加した平塚が、初動捜査の不備や遺留品捜査の問題について語っていた内容が、改めて紹介されました。
この資料が示すのは、事件から長い年月が経過した後に突然生まれた疑惑だけではありません。
捜査の問題点は、時効成立よりかなり前から、実際に捜査に携わった刑事によって指摘されていたということです。
【2026年最新】NHK「未解決事件」が三億円事件を再検証、新証言と捜査資料で何が分かった?
2026年の三億円事件をめぐる大きな動きが、NHKの調査報道番組「未解決事件 File.10 三億円事件」です。
初回放送は2026年1月10日。その後、2月4日にもNHK総合で放送されました。
今回の再検証は、単に過去の犯人説を紹介する内容ではありません。捜査に関わる資料と当時の関係者の証言を改めて調べ、事件が解決しなかった背景に迫るものでした。
180人以上への取材と膨大な捜査資料NHKの番組紹介によると、取材班は事件の関係者180人以上にあたり、膨大な捜査資料を入手しました。
その中には、捜査体制や目撃者の情報、捜査対象者のリストなどが含まれていました。
注目されたのは、当時の捜査員や報道記者による新たな証言です。
事件当時20代、30代だった関係者が、半世紀以上にわたって語る機会の少なかった捜査現場の実情を明かしました。
NHKオンデマンドの番組紹介でも、事件の象徴だったモンタージュ写真について触れられています。
当時の女子高校生が初めて証言今回の再検証で大きな注目を集めたのが、犯行現場の一部始終を目撃した当時の女子高校生の女性です。
彼女は事件当時の白バイへの違和感や、警官姿の犯人が発した言葉、犯人の様子などを証言しました。
これまで事件の目撃者として語られることが多かったのは、現金輸送車に同乗していた銀行員でした。
しかし、現場には銀行員以外にも事件の様子を目撃していた人物が存在していたのです。
新たな証言によって、従来の目撃情報だけでは捉えきれなかった事件現場の状況が改めて注目されました。
見落とされていた偽白バイの重要証言さらに重要なのが、犯行に使用されたとみられる偽白バイに関する証言です。
NHKの取材では、事件現場から約20キロ離れた場所で、偽白バイに関する複数の重要証言が見つかっていたことが取り上げられました。
これらの情報が捜査の中で十分に生かされなかった可能性が浮かび上がっています。
事件の解決を阻んだのは、必ずしも証拠が少なかったことだけではありません。
情報が存在していても、捜査本部の中で適切に共有・評価されなければ、重要な手がかりが埋もれてしまうことがあります。
今回の検証は、初動捜査の判断と情報の取り扱いが、その後の捜査全体に与えた影響を考える材料になりました。
2026年の再検証で犯人は特定されたのか現時点で、NHKの2026年の再検証によって犯人が特定されたという発表はありません。
新しい証言や捜査資料の存在が明らかになったことと、犯人を特定する決定的証拠が見つかったことは同じではありません。
今回の成果は、初動捜査の問題や、これまで十分に検証されてこなかった証言を掘り起こしたことにあります。
また、2026年7月11日にもNHK総合の番組情報で「未解決事件 File.10 三億円事件」の放送内容が取り上げられています。
半世紀を超えても再検証が続いていること自体、この事件に残された謎の多さを物語っています。
【三億円事件のモンタージュ写真】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:三億円事件のモンタージュ写真は誰の顔ですか?
A1:後年の報道によると、事件前に事故で亡くなっていた無関係の実在男性の顔写真が基礎になっています。犯人本人の写真ではなく、男性の実名は主要な報道では明らかにされていません。
Q2:少年Sが三億円事件のモンタージュ写真のモデルだったのですか?
A2:いいえ。少年S本人と写真のモデルとなった男性は別人です。少年Sに似ているとされた男性の写真が使われたというのが、近藤昭二氏らの取材で紹介されてきた経緯です。少年Sの事件への関与も確定していません。
Q3:三億円事件のモンタージュ写真はいつ公開されましたか?
A3:1968年12月21日です。1968年12月10日の事件発生から11日後に公開されました。
Q4:モンタージュ写真はいつ破棄されたのですか?
A4:1974年12月です。写真の信頼性に疑問が生じ、正式に破棄されました。1971年には写真に似ていなくても犯人として捜査する方針へ転換したとされています。
Q5:平塚八兵衛は少年Sを犯人だと考えていたのですか?
A5:2026年のNHK番組の紹介では、平塚八兵衛は少年Sについて事件とは関係がないと判断したとされています。少年Sを犯人とする説は、確定した捜査結果ではありません。
Q6:三億円事件は現在も未解決なのですか?
A6:はい。1975年12月10日に公訴時効が成立し、犯人が検挙されないまま未解決事件となりました。2026年にもNHKなどによる再検証が行われていますが、犯人の特定には至っていません。
三億円事件のモンタージュ写真は、1968年12月21日に公開された、日本の犯罪史でも特に知名度の高い手配写真です。
しかし、その顔は犯人本人ではありませんでした。
後年の報道によって、事件前に事故死していた無関係の男性の写真が使われたことが明らかになり、写真の信頼性は大きく揺らぎました。
事件を理解するうえで、押さえておきたい転換点は次の4つです。
- 1968年12月21日: モンタージュ写真が公開される。
- 1971年: 写真に似ていることを犯人の条件としない方向へ捜査方針が転換。
- 1974年12月: モンタージュ写真が正式に破棄される。
- 2026年: NHKが新証言や捜査資料をもとに事件を再検証。
【プロの結論】
三億円事件のモンタージュ写真をめぐる最大の教訓は、広く知られている情報が、必ずしも正確な証拠とは限らないということです。
事件を調べる際には、次の3点を区別する必要があります。
1. 確認できる事件記録: 発生日、写真公開日、捜査経過、公訴時効成立日など。
2. 取材によって明らかになった事実: 写真のモデル、目撃証言の問題、初動捜査の経緯など。
3. 未確定の推理や犯人説: 少年Sをめぐる説、単独犯・複数犯説、その他の真犯人説など。
とりわけ、少年Sを犯人と決めつけたり、モンタージュ写真の男性を実行犯として紹介したりすることは、事実関係の取り違えにつながります。
2026年のNHKによる再検証は、犯人探しだけではなく、なぜ重要な証言が見落とされ、捜査の方向性が固定されてしまったのかという問題にも光を当てました。
三億円事件は、犯人が誰だったのかという謎だけでなく、捜査情報の検証、目撃証言の信頼性、報道によって形成される社会の記憶を考えるうえでも重要な事件です。
今後、新たな捜査資料や関係者の証言が公表されることがあれば、注目すべきなのは、センセーショナルな犯人説よりも、既存の証拠と矛盾なく結びつく新事実があるかどうかです。
半世紀以上にわたって独り歩きしてきた一枚の写真。その正体を知ることは、三億円事件の本当の姿を理解するための重要な出発点になります。