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新撰組イケメンの史実を検証!隊中美男五人衆の正体と逸話、創作との違いを徹底解説

滑原 圭介 滑原 圭介 • 更新: • 公開: • 読了約 20 分
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新撰組のイケメンと聞いて、土方歳三や沖田総司を思い浮かべる人は多いだろう。しかし、幕末の新選組には、彼らとは別に「隊中美男五人衆」と呼ばれる若い隊士たちがいたという伝承が残されている。

その顔ぶれは、楠小十郎、馬越三郎、山野八十八、佐々木愛次郎、馬詰柳太郎の5人。昭和初期に子母澤寛が発表した『新選組物語』に登場し、八木為三郎の回顧談と結び付いて語り継がれてきた。ただし、5人全員の実在を裏付けることと、五人衆という集団が当時正式に存在したことは別問題だ。文久3年(1863年)の隊士名簿には、興味深い食い違いも見つかる。

【まず結論】新撰組のイケメンは土方・沖田だけではない!

新撰組イケメン

新選組の美男として広く知られる土方歳三と沖田総司。しかし、子母澤寛が『新選組物語』で紹介した「隊中美男五人衆」は、まったく異なる隊士たちで構成されている。

この五人衆が登場するのは、昭和6年(1931年)に発表された「隊中美男五人衆」という作品だ。昭和館デジタルアーカイブに残る当時の雑誌情報でも、子母澤寛の「野話聞書」として掲載されたことが確認できる。

子母澤は、新選組が京都・壬生に置いた屯所の一つ、八木家に関係する八木為三郎から話を聞いていた。為三郎は、新選組隊士たちが八木邸で生活していた時代を知る人物であり、その回顧談は初期の新選組の日常を伝える重要な材料となっている。

ただし、ここで押さえたいのは、八木為三郎の証言が幕末当時に作成された公文書そのものではないという点だ。本人の記憶を後年に聞き取り、子母澤が文章として再構成したものである。

また、『新選組物語』は前作の『新選組始末記』『新選組遺聞』と比べても物語性が強い。実在の人物や実際に起きた事件を素材にしながら、読み物としての演出が加わっている。

つまり、五人衆は歴史上の人物を扱った伝承として興味深い一方、当時の新選組に正式な「美男ランキング」や五人組の制度があったと証明されたわけではない。

【完全一覧】隊中美男五人衆の5人は誰?名前と人物像を紹介

子母澤寛が紹介した五人の特徴は、若さだけではない。剣術の腕前、屯所での生活、女性との関係、そして隊を離れた後の人生まで、それぞれ異なる逸話が残されている。

1.楠小十郎(くすのきこじゅうろう)

楠小十郎は、五人衆の中でも特に若く、子母澤の記述では17歳だったとされる。大きな目、白い肌、女性を思わせる声など、若々しい容姿が印象的な人物として描かれている。

八木為三郎の回顧談に基づく話では、年齢が若かったこともあり、屯所では近所の子どもたちと遊ぶ姿が目立っていたという。

しかし、その裏では長州側とつながる間者だったという逸話がある。新選組の内部情報を外部に伝えていたことが発覚し、文久3年(1863年)9月に処断されたと伝わる。

関連する手掛かりとして知られるのが、真木和泉の日記に記された「楠十」という人物だ。文久3年7月17日の来訪記録があり、これを楠小十郎と結び付ける見方がある。ただし、名前の一致だけで同一人物と断定できるわけではない。

最期についても、近藤勇の前で斬首されたという説と、壬生の菜畑で斬られたという説がある。いずれも原田左之助が関与したとする伝承が残る。

2.馬越三郎(まごしさぶろう)

馬越三郎は、五人衆の中で最年少とされる16歳の隊士だ。子母澤の作品では、女性を思わせる表情や顔立ちを持つ美少年として描かれている。

一方、同時代の隊士名簿を整理した相川司の『新選組隊士録』には、馬越大太郎という名前が掲載されている。馬越三郎と馬越大太郎は同一人物として扱われることが多く、史料を読む際にはこの名前の違いが重要になる。

外見の柔和さとは対照的に、剣術の腕前は優れていたという。竹刀を持つと表情や雰囲気が変わり、若侍らしい実力を見せたと伝えられている。

有名な逸話は、幹部隊士の武田観柳斎との関係だ。子母澤の記述では、武田から言い寄られたものの、馬越は応じなかったという。

さらに武田の裏切りを上層部に報告したという話もある。しかし、馬越は元治元年(1864年)の早い時期に隊を離れたとされる一方、武田観柳斎が処断されたのは慶応3年(1867年)6月だ。この時間的な隔たりから、馬越が武田の処断に直接関わったという説には疑問が残る。

馬越は除隊時に土方歳三からまとまった金銭を受け取り、それを元手に横浜でガラス商人になったという八木為三郎の回顧談も伝わっている。

3.山野八十八(やまのやそはち)

山野八十八は、五人衆の中では比較的年長で、子母澤の記述では21~22歳。色白で、いつも笑顔を浮かべていた愛嬌のある人物だったという。

若い女性との恋愛話も残されている。相手は、壬生にあった水茶屋「やまと屋」の娘とされる。屯所周辺の人々との交流を含め、山野の人柄を伝えるエピソードの一つだ。

ほかの隊士と同様に剣術にも優れていたとされ、永倉新八や斎藤一らと行動したという記録が紹介されている。

後年の伝承では、戊辰戦争を経て箱館方面まで行動をともにし、明治時代には京都の小学校で小使いとして働いたという。若い頃の華やかな逸話とは異なる、長い人生を歩んだ隊士として紹介されることも多い。

4.佐々木愛次郎(ささきあいじろう)

佐々木愛次郎は、大坂の錺職人の息子とされる隊士だ。子母澤の記述では19歳で、顔立ちだけでなく、引き締まった身体も印象的だったという。

八百屋の娘・あぐりとの悲恋が最も有名な逸話である。

伝承によれば、愛次郎とあぐりは恋仲になったが、芹沢鴨があぐりを妾にしようとした。そこで隊士の佐伯又三郎が二人に脱走を勧めたものの、実際には罠であり、二人は朱雀千本付近の竹やぶで襲撃されたという。

愛次郎は斬殺され、あぐりも悲劇的な最期を迎えた。その後、佐伯又三郎も芹沢の怒りを買い、殺害されたと物語では描かれている。

しかし、この悲恋には後述する重要な史料上の問題がある。文久3年12月の新選組名簿に、佐々木愛次郎の名前が残っているのだ。

5.馬詰柳太郎(まづめりゅうたろう)

馬詰柳太郎は、五人衆の中では20歳とされる隊士だ。顔立ちは整っていたものの、性格はおとなしく、ほかの隊士たちと積極的に交流するタイプではなかったという。

彼の逸話として知られるのが、南部家に仕えていた子守女との関係だ。女性が妊娠したことから、屯所周辺で馬詰の息子が父親ではないかという噂が広がったとされる。

その出来事をからかう戯れ歌まで流行し、馬詰父子は周囲に居づらくなったという。元治元年(1864年)の池田屋事件当日、出動に向かう途中で父とともに脱走したという逸話が残る。

なお、馬詰柳太郎という名前には史料上の注意点がある。名簿には馬詰信十郎や馬詰勘介という名前が見られ、柳太郎と信十郎を同一人物と整理する資料もある。父子の名前や表記には異同があり、単純に一つの名前に統一することはできない。

【史料照合】文久3年の新選組名簿が覆す佐々木愛次郎の悲恋説

五人衆の逸話を史実として読むうえで、特に注目したいのが佐々木愛次郎の生死をめぐる問題だ。

子母澤寛の『新選組物語』では、佐々木愛次郎とあぐりは文久3年8月頃に殺害されたとされる。しかし、後年確認された『維新階梯雑誌』所収の文久3年12月の新選組名簿には、驚くべき記載がある。

「大坂 佐々木愛次郎 十七才」

これは歴史作家・山村竜也が紹介した新史料の記述である。同名簿には42人の隊士が記され、沖田総司が率いる一番隊の中に佐々木愛次郎の名前があるという。

8月に殺害されたはずの人物が、約4か月後の名簿に在籍者として記されている。この食い違いは、悲恋物語をそのまま史実とみなすことが難しいことを示している。

8月の記録と12月の名簿を照合する

関連する記録として、文久3年8月2日の『莠草年録』には、千本通り付近で男女1人ずつの遺体が放置されていたという記述がある。

また、8月10日には佐伯又三郎の遺体が放置されていたことを示す複数の記録があると紹介されている。

ただし、8月2日の記録には遺体の名前が記されていない。男女の遺体が佐々木愛次郎とあぐりだったと確認できる直接的な証拠はない。

山村竜也は、こうした実際の記録と子母澤の物語を照合し、無名の男女の遺体に関する話が、佐々木愛次郎とあぐりの悲恋として再構成された可能性を指摘している。

加えて、12月の名簿に愛次郎が残っていることから、少なくとも8月の殺害説には大きな疑問が生じる。

なお、名簿に名前があることだけで本人の生存を完全に証明できるわけではない。名簿の更新時期や転記の問題も考慮する必要がある。それでも、伝承された物語と同時代の記録が食い違う重要な事例であることに変わりはない。

【名前と関係性を比較】五人衆と文久3年の隊士名簿の違い

五人衆を理解するには、子母澤寛の作品に登場する名前と、同時代の名簿に残された名前を比較することが欠かせない。

相川司の『新選組隊士録』は、最新史料をもとに新選組隊士を時系列で整理した資料で、出版社の紹介によると全520人を収録している。文久3年4月から6月の入隊者の中には、五人衆と関係する名前が複数確認できる。

五人衆の名前 伝承上の年齢 名簿・史料との関係 主な逸話・注意点
楠小十郎 17歳 文久3年4~6月の隊士一覧に掲載 間者説、原田左之助による処断の伝承
馬越三郎 16歳 馬越大太郎の名前が掲載 武田観柳斎との逸話、横浜での商売
山野八十八 21~22歳 文久3年4~6月の隊士一覧に掲載 やまと屋の娘との恋愛伝承
佐々木愛次郎 19歳 文久3年4~6月の隊士一覧に掲載。12月名簿にも同名が登場 あぐりとの悲恋、8月殺害説への疑問
馬詰柳太郎 20歳 馬詰信十郎・馬詰勘介の名前が掲載 子守女との逸話、父子脱走説

この比較から見えてくるのは、五人衆に挙げられた人物の名前と、実際の隊士名簿に記された名前には対応関係が見られる一方、完全に一致しない場合もあるということだ。

特に馬越三郎と馬越大太郎、馬詰柳太郎と馬詰信十郎の関係は、表記の違いを考慮しなければ人物の特定を誤る可能性がある。

また、名簿に名前があることは隊士としての存在を検討する材料になるが、容姿や恋愛関係まで証明するものではない。名簿、日記、回顧談、後年の物語は、それぞれ証明できる事柄が違う。

【史実と創作の違い】土方歳三と沖田総司は本当にイケメンだった?

新選組イケメンランキングで必ずといってよいほど上位に挙がるのが土方歳三と沖田総司だ。しかし、二人の容姿については、残された資料の性質が大きく異なる。

土方歳三は実際に美男だったという証言がある

土方歳三については、容姿を評価する回顧談が複数伝わっている。

特に知られるのが、八木為三郎による証言だ。父親が土方を役者のような男だと評していたという。髪が黒く豊かで、目が大きく、引き締まった顔立ちだったとも語られている。

また、福地桜痴の回想にも、色白でなで肩、少し猫背ながら男ぶりがよかったという趣旨の記述がある。

土方については、国立国会図書館の「近代日本人の肖像」でも人物紹介と肖像写真が公開されている。写真は明治元年(1868年)12月に箱館で撮影されたものとされ、現存する実物資料によって本人の風貌を確認できる点が沖田とは異なる。

ただし、この写真は京都で活動していた時代の姿そのものではない。晩年の写真と生前の回顧談を合わせて人物像を考えることが適切だ。

沖田総司の美少年説は創作の影響が大きい

一方、沖田総司には本人のものと確認できる写真が現存していない。

一般に沖田の肖像として紹介される絵も、昭和4年(1929年)に姉ミツの孫にあたる沖田要をモデルとして描かれたものだ。本人を直接写した画像ではない。

八木為三郎が『新選組遺聞』で語った沖田の姿は、背が高く、肩が張り、色の青黒い人物だったというものだ。また、よく冗談を言い、近所の子どもたちと遊んでいたとも回想している。

こうした証言からは、現代の漫画やドラマで定番となっている色白で華奢な美少年像とは異なる人物像も浮かび上がる。

早稲田大学大学院教育学研究科紀要に掲載された「新選組『復権』への系譜―『司馬遼太郎』の歴史構築―」でも、司馬遼太郎の『燃えよ剣』などによって、沖田に童子のような明るさや美しい容貌が付与されていった過程が論じられている。

つまり、沖田の美少年像は、歴史上の人物像に小説や映像作品の魅力が重なって形成されたものだ。実際の顔立ちについて断定することはできない。

新選組のイケメン像が広まった背景

新選組の人気が大きく広がった背景には、子母澤寛だけでなく、司馬遼太郎をはじめとする作家たちの影響もある。

特に『燃えよ剣』や『新選組血風録』は、土方や沖田を単なる歴史上の隊士ではなく、個性と感情を持った魅力的な人物として描いた。

歴史研究と小説は役割が違う。小説は人物の内面や人間関係を生き生きと表現できる一方、史料に残されていない会話や感情を補うこともある。

この違いを理解すれば、土方や沖田の魅力を楽しみながら、五人衆のような知られざる隊士たちの実像にも目を向けられる。

【プロの結論】新選組イケメンランキングを見るときの3つの判断基準

新選組のイケメンを調べる際、ランキング形式の記事や人物紹介だけを比較しても、史実と創作の境界は見えてこない。歴史上の人物として理解するなら、次の3点を意識したい。

1.人物の実在と美男だったという評価を分ける

隊士名簿に名前が掲載されていることは、その人物の実在や在籍を考えるうえで重要な手掛かりになる。しかし、美男だったことを直接証明するわけではない。

容姿を知るには、本人を知る人物の回顧談や、当時の記録など、別の証拠が必要になる。

2.証言が記録された年代を確認する

八木為三郎の回顧談は、新選組が壬生にいた頃を知る人物の記憶として貴重だ。しかし、証言が記録されたのは出来事から数十年後である。

記憶違いや後年の情報との混同、聞き手による文章の再構成が入り込む可能性もある。だからこそ、同時代の名簿や日記と照合することが大切になる。

3.物語としての面白さと史実の確実性を混同しない

佐々木愛次郎とあぐりの悲恋、馬越三郎と武田観柳斎の逸話、馬詰柳太郎をめぐる恋愛騒動は、どれも印象に残る話だ。

しかし、物語として有名であることと、史実として裏付けられていることは同じではない。

特に佐々木愛次郎のように、後年発見・紹介された名簿が従来の説を揺さぶるケースもある。新しい史料が登場すれば、長く知られてきた人物像が見直されることもあるのだ。

その意味で、歴史好きには、物語性を重視する人も、同時代の一次史料を中心に調べたい人も、それぞれ異なる楽しみ方がある。両方を行き来することで、新選組の人物像はより立体的になる。

新撰組イケメンに関するよくある質問(FAQ)

Q1:新選組のイケメン五人衆は誰ですか?

A1:楠小十郎、馬越三郎、山野八十八、佐々木愛次郎、馬詰柳太郎の5人です。子母澤寛の『新選組物語』に登場する若い隊士たちで、土方歳三と沖田総司は含まれていません。

Q2:隊中美男五人衆は本当に実在したのですか?

A2:五人に挙げられた名前には、隊士名簿などに対応する記録が見られます。ただし、五人衆という正式な組織や、当時その名称で呼ばれていたことまで証明されているわけではありません。

Q3:土方歳三は本当にイケメンだったのですか?

A3:八木為三郎や福地桜痴らによる容姿の評価が伝わっています。役者のような男だったという証言もあり、土方の美男説には後世の創作だけではない回顧談による裏付けがあります。

Q4:沖田総司の顔写真は残っていますか?

A4:本人のものと確認できる写真は現存していません。一般に沖田の肖像として知られる絵は、昭和4年に姉ミツの孫をモデルとして描かれたものです。

Q5:佐々木愛次郎とあぐりの悲恋は史実ですか?

A5:子母澤寛の『新選組物語』に登場する有名な逸話ですが、文久3年12月の名簿に佐々木愛次郎の名前が残っています。8月の殺害説との矛盾があるため、悲恋の物語をそのまま史実とすることには慎重な検討が必要です。

Q6:馬越三郎と馬越大太郎は同じ人物ですか?

A6:同一人物として扱われることが多い名前です。子母澤寛の作品では馬越三郎、隊士名簿では馬越大太郎という表記が見られます。

Q7:隊中美男五人衆について読むなら、どの本がおすすめですか?

A7:逸話を読むなら子母澤寛の『新選組物語』、隊士の実在や名前を調べるなら相川司の『新選組隊士録』が参考になります。両方を読み比べると、物語と名簿史料の違いを理解しやすくなります。

新撰組イケメンの代表として知られる土方歳三や沖田総司とは別に、楠小十郎、馬越三郎、山野八十八、佐々木愛次郎、馬詰柳太郎という五人の若い隊士が「隊中美男五人衆」として伝えられてきた。

その逸話を広く知らしめたのが、子母澤寛の『新選組物語』であり、背景には八木為三郎の回顧談がある。そこには、屯所での暮らし、女性との関係、隊士同士の人間模様など、公式の戦闘記録だけでは見えにくい新選組の日常が描かれている。

一方、文久3年12月の名簿に残る佐々木愛次郎の名前は、従来の悲恋物語に疑問を投げかける。馬越三郎と馬越大太郎、馬詰柳太郎と馬詰信十郎の表記の違いも、人物の実像を考えるうえで見逃せない。

2026年現在、新選組の魅力は、土方や沖田の華やかな人物像だけでは語り尽くせない。名簿に名前が残る無名の隊士たち、後年の証言に刻まれた日常、そして小説によって形作られた人物像。それぞれを区別して読み解くことで、幕末を生きた若者たちの姿がより鮮明になる。

「誰が一番イケメンだったのか」というランキングの答え以上に興味深いのは、五人それぞれの人生と、史料を照合することで変わっていく新選組の歴史そのものなのだ。

主な参照資料

- 中央公論新社『新選組物語』書誌情報
- 昭和館デジタルアーカイブ「文芸春秋」昭和6年掲載情報
- 相川司『新選組隊士録』(新紀元社)
- 山村竜也「新選組美少年隊士の謎を解く!」(歴人マガジン)
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」
- 早稲田大学大学院教育学研究科紀要「新選組『復権』への系譜」

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コンテンツディレクター 滑原 圭介
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旅行・観光を担当。現地の公式観光資料と営業情報を確認してから記事にします。

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