「たっすいがはいかん」が地域に浸透した背景には、キリンビールが経験した深刻な販売不振と、顧客の声を受け止めた営業改革があります。
その中心人物が田村潤氏です。
1995年、田村潤氏が高知支店長に就任田村氏は1973年にキリンビールへ入社。1995年、営業企画に携わっていた時期に高知支店長として赴任しました。
当時のキリンビールは、1987年に発売されたアサヒスーパードライの急成長によって、競争力を失いつつありました。
高知支店も苦しい状況にあり、田村氏によれば、支店のメンバーはわずか12人。支店長を含む営業担当者10人と、内勤の女性スタッフ2人という体制でした。
1996年、キリンラガーの味を変更したことが逆風に転機となったのは、1996年2月のキリンラガービールの味の変更です。
当時のキリンビールは、アサヒスーパードライに対抗するため、従来のラガーが持っていた苦みやコクを抑え、若い世代にも受け入れられやすい、すっきりした味わいを目指しました。
しかし、高知では従来の苦みや飲み応えを好む顧客が多く、変更への反発が強まりました。
田村氏は、顧客から「なぜ味を変えた」と繰り返し指摘されたことを振り返っています。
さらに1996年9月には、高知県内の販売シェアでアサヒビールに首位を奪われました。
1997年、現場から本社へ味の復活を直談判高知支店では、飲食店への訪問を増やし、顧客の意見を直接聞く営業活動に力を入れました。
その中で明らかになったのが、キリンラガーの味に対する昔からの顧客の愛着です。
1997年11月には、キリンビールの社長が高知支店を訪問した際、内勤の女性スタッフがラガーの味を元に戻してほしいと直談判しました。
会社側が変更したばかりの味をすぐに戻すことに慎重な姿勢を示すと、女性スタッフは顧客の立場から強く訴えたといいます。
田村氏は、この出来事を著書やインタビューで振り返っています。
1998年、ラガーの味を戻すと発表1998年1月、キリンビール本社はラガーの味を従来の方向に戻すと発表しました。
苦みとコクを高める方向への再変更です。
高知支店はこの動きを、単なる商品変更としてではなく、顧客の声が会社に届いた出来事として伝えました。
「高知のお客様の声で味が戻った」という事実を地域の顧客に届け、感謝を込めた営業活動につなげたのです。
高知支店の奇跡を理解するための年表ここまでの経緯を整理すると、次のようになります。
特に注目したいのは、2001年秋に高知県内のキリンビールのシェアが44%まで回復した点です。
田村氏が高知支店から転出する時点で、県内トップシェアを取り戻していました。その後、2009年には全国でも首位を奪還しています。
【キリンビールの広告戦略】なぜ土佐弁が高知県民の心をつかんだのか?

「たっすいがはいかん」の成功を考えるうえで重要なのは、言葉のインパクトだけではありません。
キリンビール高知支店は、地域の顧客が何を求めているのかを理解したうえで、広告と営業活動を組み合わせました。
全国共通の広告ではなく高知限定の表現を選択全国向けの広告をそのまま高知に持ち込んでも、地域の顧客の心を十分につかめるとは限りません。
そこで採用されたのが、土佐弁を使った地域限定の広告表現です。
一般的な商品広告なら「コクがある」「飲み応えがある」といった商品の特徴を説明します。
しかし、「たっすいがは、いかん!」は違います。
高知の人なら日常的に耳にする言葉を使い、商品の魅力を地域の価値観に結び付けました。
コピーライティングの観点から見ると、次の3つの効果があります。
- 地域への親近感: 地元の言葉を使うことで、自分たちに向けた広告だと感じられる。
- 商品の差別化: 飲み応えや苦みを重視するラガーの特徴を短い言葉で表現できる。
- 話題性: 県外の人には意味が分かりにくく、広告そのものが会話のきっかけになる。
ダイヤモンド・オンラインのコピーライティング解説でも、この広告は「張り合いがない、手応えがない」という土佐弁を利用し、ラガーの「ガツンとくる」という商品イメージに結び付けた事例として紹介されています。
広告だけではない。飲食店を訪問する営業改革もう一つ見逃せないのが、田村氏による営業活動の改革です。
BPNavigatorのインタビューによると、当時の高知県には約2,000軒の飲食店がありました。
一方、田村氏が赴任する前の高知支店では、飲食店への訪問は支店全体で月30~50軒程度でした。
そこで、営業担当者が各自の目標を設定し、月200軒を訪問するような取り組みを進めました。
この改革には大きな意味があります。
広告を見て商品に興味を持った顧客がいても、飲食店でその商品を注文できなければ販売にはつながりません。
広告による認知、飲食店への営業、実際に飲んでもらう機会の確保。この3つを連動させたことが、高知支店の強みでした。
高知の顧客を大切にするというメッセージ田村氏のインタビューでは、顧客に喜んでもらうことを営業活動の原点に置いたことが語られています。
これは、単に売上を増やすための営業ではありません。
商品への不満を聞き、味の変更を本社に提言し、顧客の要望が反映されたことを伝える。
その積み重ねによって、キリンビールと高知の顧客との関係を再構築していったのです。
つまり「たっすいがはいかん」は、商品の味を訴求する言葉であると同時に、顧客の期待を裏切らないという企業姿勢を象徴する言葉でもあります。
【キリンラガーの味を検証】高知県民が求めた苦みと飲み応えとは?
「たっすいがはいかん」を理解するには、広告の対象となったキリンラガービールの味についても知っておく必要があります。
1996年の味の変更で何が起きたのか1996年のキリンラガーは、若年層を意識して従来よりも苦みやコクを抑えた方向へ変更されました。
しかし、高知県では従来のラガーの味を支持していた顧客が多く、変更に対する不満が強く表れました。
田村氏はインタビューで、高知では「あの苦い味がいい」という顧客が多かったと説明しています。
このエピソードから分かるのは、商品の評価が必ずしも全国一律ではないということです。
全国規模の市場調査で若い世代に好まれる味が分かったとしても、それだけで長年のファンが求める味まで説明できるわけではありません。
高知支店にとっては、既存顧客がラガーに期待していた価値を理解することが必要でした。
現在のキリンラガービールの味の特徴
アルコール分:5%
原材料:麦芽、ホップ、米、コーン、スターチ
ホップの効いた飲み応えと、締まりのある後味が特徴。
キリン公式の商品情報では、現在のキリンラガービールについて、ホップの量・質・投入時期にこだわり、飲み応えと後味のバランスを追求した商品として紹介しています。
また、約マイナス1℃の低温で熟成させる製法も特徴です。
キリンラガーとキリンクラシックラガーはどう違う?ここで混同しやすいのが、キリンラガービールとキリンクラシックラガーです。
キリンラガービール
アルコール分5%
ホップの効いた飲み応えと、締まりのある後味を特徴とする現行のラガー。
キリンクラシックラガー
アルコール分4.5%
昭和40年頃の味わいをイメージし、熱処理製法で造られる商品。
どちらもラガーの伝統を受け継ぐ商品ですが、同一の商品ではありません。
キリン公式の商品説明では、クラシックラガーはコクや苦み、昔ながらのビールらしい味わいを重視した商品として区別されています。
1996年の味の変更と1998年の再変更を知ると、なぜ高知でラガーの味がこれほど重要な問題になったのかが理解できます。
高知県民の味の評価は全国共通なのか?ここは慎重に理解したい部分です。
高知の顧客から苦みやコクを求める声が強かったことは、田村氏自身の証言に基づいています。
しかし、それは高知県民全員が同じ味を好むという意味ではありません。
また、現在のキリンラガーがすべての高知県民にとって理想の味だという客観的な調査結果があるわけでもありません。
このエピソードの本質は、味の優劣そのものよりも、長年愛されてきた商品の特徴を企業側の都合で変えたとき、顧客との信頼関係にどのような影響が出るのかという点にあります。
【ポスターは現在もある?】高知に根付いた「たっすいがはいかん」の現在
「たっすいがはいかん」の広告といえば、キリンラガーの大瓶と大きな文字を組み合わせたポスターを思い浮かべる人も多いでしょう。
高知空港や県内の飲食店などで掲示され、地域を訪れた観光客にも強い印象を残してきました。
キリン公式記事が明かしたポスターの現在2021年11月11日、キリンビール公式noteは「たっすいがは、いかん!」という記事を公開しました。
記事では、かつて高知空港などに掲示されていたポスターの写真を紹介しています。
ただし、キリン公式記事には、写真のポスターについて「現在こちらのポスターは掲示されておりません」との注記があります。
したがって、2026年現在も当時と同じポスターが高知空港に掲示され続けていると考えるのは正確ではありません。
2024年から2025年にもテレビCMで使用一方、キャッチコピーそのものが過去の広告として完全に終わったわけではありません。
JA高知県の2024年11月8日付のお知らせによると、キリンビール高知支店のテレビCMに窪川養豚協会が出演しました。
CMでは、四万十ポークを炭火で焼く様子や、地域の人々がビールを楽しむ場面が撮影されました。
最後には出演者とキリンビールの関係者が、
高知の「おいしい」を元気に!たっすいがは、いかん!
と呼びかけています。
放送期間は2024年11月9日~12月7日と、2025年1月25日~2月15日でした。
ここで興味深いのは、広告の中心がビール単体から高知の食文化や地域産品にも広がっていることです。
四万十ポークという地元の食材と一緒に訴求することで、地域の魅力を伝えるメッセージとして再活用されています。
「たっすいがはいかん!の森」という地域活動この言葉が広告を超えて地域に浸透したことを示す事例が、四万十町の「たっすいがは、いかん!の森」です。
高知県の公式資料によると、2006年5月24日、キリンビール株式会社、四万十町、高知県の3者が協働の森づくり事業に関する協定を締結しました。
当初の対象森林は約36ヘクタールで、森林の手入れや保水力の向上、CO2吸収量の増加などを目的とした活動が計画されました。
その後も協定は更新され、2018年から2021年までの第5期には約98ヘクタールが対象となっています。
ただし、この環境保全活動の協定は現在も継続しているわけではありません。
高知県が2026年4月8日に更新した協定満了企業・団体一覧には、「たっすいがは、いかん!の森」とキリンビール株式会社が掲載されています。
このように、広告の言葉が地域の森林保全活動の名称にも採用されていたことは、単なる商品コピー以上の存在になっていたことを示しています。
【たっすいがはいかんの意味】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:「たっすいがはいかん」は標準語で何という意味ですか?
A1:標準語では「弱々しいものはダメ」「張り合いがないものではいけない」という意味です。キリンラガーの広告では「薄くて飲み応えのないビールでは満足できない」というニュアンスが込められています。
Q2:「たっすい」は何の方言ですか?
A2:主に高知県の土佐弁として知られる言葉です。弱々しい、頼りない、手応えがない、味が薄いといった意味があります。
Q3:「たっすいがー」と「たっすいがはいかん」は同じですか?
A3:意味の中心は共通しています。「たっすいがー」は弱々しい、頼りないという意味で紹介される方言表現です。一方、「たっすいがは、いかん」は「そうしたものはダメだ」と否定する一まとまりの表現です。
Q4:キリンビールの広告コピーを考えたのは田村潤氏ですか?
A4:田村潤氏は高知支店の営業改革を指揮した人物です。2018年の高知東ロータリークラブの講演記録では、元高知支店勤務の井上真由美氏が、自らコピーの発案者だと語っています。
Q5:キリンラガーは1998年に昔の味へ戻ったのですか?
A5:1996年に苦みやコクを抑える方向へ変更された味を、1998年には苦みとコクを高める方向へ再変更しました。高知の顧客の声が本社への働きかけにつながった経緯があります。
Q6:キリンの「たっすいがはいかん」のポスターは現在も高知空港にありますか?
A6:キリン公式noteは、記事に掲載した当時のポスターについて、現在は掲示されていないと説明しています。一方、2024年から2025年には同じフレーズを使った高知向けテレビCMも放送されました。
Q7:田村潤氏の『キリンビール高知支店の奇跡』はいつ発売されましたか?
A7:2016年4月21日に講談社+α新書から発売されました。1995年の高知赴任から2001年の県内シェア首位奪還、さらに全国での営業改革までを振り返る内容です。
「たっすいがはいかん」は、単に「弱いものはダメ」という意味の土佐弁ではありません。
キリンラガービールの広告に採用されたことで、地域の言葉と商品価値が結び付き、高知を代表する印象的なキャッチコピーへと成長しました。
その背景には、1996年の味の変更に対する顧客の反発、1998年の味の再変更、田村潤氏による営業改革、そして井上真由美氏によるコピーの発案という複数の出来事があります。
2001年には高知県内のキリンビールのシェアが44%まで回復し、トップシェアを奪還。2009年には全国でも首位を取り戻しました。
また、2024~2025年のテレビCMや、かつての「たっすいがは、いかん!の森」の取り組みからも、この言葉が地域の広告表現を超えて活用されてきたことが分かります。
【プロの結論】この広告が今も語り継がれる3つの理由1. 地域の言葉を商品の価値に変えたこと
全国共通の宣伝文句ではなく、土佐弁を使うことで高知の人々に直接語りかける広告になりました。
2. 顧客の不満を商品と組織の改善につなげたこと
ラガーの味をめぐる一連の出来事は、企業が顧客の声を聞くことの重要性を示しています。
3. 広告の発想を現場の行動と結び付けたこと
魅力的なコピーだけでは売上は回復しません。地道な飲食店訪問、商品の配置、顧客との対話があったからこそ、広告のメッセージが説得力を持ちました。
マーケティングを学ぶ人にとっても、この事例は大きな示唆があります。
地域限定広告を成功させるために必要なのは、単に方言を使うことではありません。その土地の人々が何を大切にし、商品に何を求めているのかを理解することです。
「たっすいがはいかん!」が長く記憶されている理由も、言葉の強さだけではなく、その言葉を裏付ける商品と人の行動があったからでしょう。
弱々しいものでは満足しない。顧客の期待にも妥協しない。
そんな土佐弁の力強さとキリンビール高知支店の挑戦が、この短いフレーズには詰まっています。