ホーム 芸能人プロフィール・現在 アントニオ猪木と倍賞美津子の結婚・離婚、その後の関係を2026年最新報道で徹底解説

アントニオ猪木と倍賞美津子の結婚・離婚、その後の関係を2026年最新報道で徹底解説

倉持 玲奈 倉持 玲奈 • 更新: • 公開: • 読了約 18 分
目次

アントニオ猪木と倍賞美津子は、どのように出会い、結婚し、そして別々の人生を歩むことになったのか。二人は1971年に結婚し、娘の寛子さんをもうけたものの、1987年に離婚した。昭和を代表するプロレスラーと人気女優の結婚は、当時「1億円挙式」として大きな話題を集めた。

離婚の背景には猪木の女性関係や事業上の問題があったと伝えられてきたが、2026年には実弟・猪木啓介氏が新たな証言を公表。加えて、猪木の晩年に倍賞美津子が病床を訪れていたことも報じられている。2022年10月に猪木が亡くなってから4年が経過した2026年、二人の関係を改めて振り返る。

【馴れ初め】アントニオ猪木と倍賞美津子の出会いは豊登の紹介だった

アントニオ猪木倍賞美津子

アントニオ猪木と倍賞美津子の出会いは、1960年代にさかのぼる。二人を結びつけたのは、猪木の先輩レスラーだった豊登(とよのぼり)である。

当時の倍賞美津子は、松竹歌劇団(SKD)に所属する若い舞台人だった。一方の猪木は、ブラジルから帰国したプロレスラーとして活動していた時期にあたる。

2022年10月にFRIDAYデジタルが掲載した細田昌志氏の連載記事によると、1966年ごろ、豊登の紹介を通じて二人は知り合った。豊登は芸能界にも幅広い人脈を持っており、SKDの公演や食事の席が交流のきっかけになったという。

最初のデートは横浜へのドライブ

初対面からすぐに恋愛関係になったわけではない。猪木の自伝や当時の報道をたどると、二人が親しくなるまでには時間がかかっている。

1966年秋ごろ、二人は横浜までドライブに出かけたとされる。猪木は早い段階で結婚を申し込んだものの、倍賞は返事をしなかった。当時の猪木には米国時代の家庭事情があり、二人の関係は一度途切れることになる。

その後、1969年秋ごろに再び接点が生まれた。猪木は倍賞の姉である女優・倍賞千恵子のサインを頼むという口実で、倍賞家を訪問したと伝えられている。

猪木はプロレスファンだった倍賞の母親とも親しくなり、家族との距離を縮めていった。FRIDAYデジタルの記事では、猪木が倍賞の父親にも積極的に接近し、家族の信頼を得ようとしたエピソードが紹介されている。

こうした交流を経て二人は交際を深め、1970年には結婚の話が報道されるようになった。1971年3月には婚約発表も行われ、結婚への準備が進んでいった。

【結婚】1971年の1億円挙式と京王プラザホテルの豪華披露宴

二人が正式に結婚披露宴を開いたのは、1971年11月2日。会場は東京・西新宿の京王プラザホテルだった。

当時の猪木はプロレス界で知名度を高めていたものの、プロレスそのものは現在ほど一般社会に浸透していなかった。倍賞は映画や舞台で活動する女優であり、異なる世界で活躍する二人の結婚は大きな注目を集めた。

披露宴の費用は約1億円、ケーキは高さ5メートル

披露宴は、当時の芸能・スポーツ界でも異例の規模だった。文春オンラインが2022年に掲載した猪木の評伝に関する記事では、披露宴の総費用は約1億円規模と紹介されている。

特に注目されたのが、会場に用意された豪華なウエディングケーキだ。高さは約5メートル。卵約2000個、砂糖約500キロを使ったと伝えられている。

衣装や引き出物にも多額の費用がかけられ、披露宴には約1000人が出席したという記録も残っている。

この豪華な挙式には、猪木自身の強い意図があった。猪木の自伝を紹介した文春オンラインの記事によると、当時の新聞や週刊誌では倍賞の名前が先に掲載されることがあり、猪木はプロレスがまだ世間から十分に認められていないことを意識していたという。

そこで、世間を驚かせるような結婚式を開こうと考え、1億円規模の披露宴を実現させた。単なる夫婦の祝宴ではなく、プロレスという競技の存在感を社会に示す意味合いもあった。

結婚披露宴後の記者会見でも、二人の自然体なやり取りが伝えられている。猪木がトレーニングを優先したエピソードを倍賞が明かし、猪木が照れたという微笑ましい場面も残されている。

【家族】娘・猪木寛子さんの誕生と夫婦を支えた時間

結婚後、二人の間には娘の寛子さんが誕生した。名前は猪木寛子さん。猪木は講演などでも娘について語っており、家族を大切にしていた一面がうかがえる。

1979年には、東京・目黒の幼稚園で行われた餅つきの場に、猪木と倍賞、娘の寛子さんがそろって参加した写真が東スポの写真資料にも残っている。

倍賞美津子は家庭と女優業を両立

倍賞美津子は結婚後、仕事をセーブしながら育児にも取り組んだと報じられている。幼い娘の世話や食事の準備など、家庭生活を大切にする時期を過ごした。

一方で、女優としての活動も続けていた。1979年公開の今村昌平監督作品『復讐するは我にあり』では、緒形拳が演じる主人公の妻を担当。三國連太郎との共演でも注目を集め、ブルーリボン賞助演女優賞を受賞した。

その後も『影武者』『楢山節考』『恋文』『うなぎ』など、映画史に残る作品に出演。女優としての評価を確立していった。

猪木の新日本プロレス旗揚げを支えた存在

猪木は1972年に新日本プロレスを旗揚げした。新しい団体を立ち上げる過程では経営面の負担も大きく、資金繰りや事業上の問題に直面したと伝えられている。

2026年の女性自身の記事では、結婚当初の猪木を倍賞が精神的、経済的な面で支えたエピソードも紹介された。倍賞は単に有名レスラーの妻という立場にとどまらず、猪木の活動を身近で支える存在だった。

猪木の実弟・猪木啓介氏も2026年の文春オンラインのインタビューで、倍賞が兄のリング上での立ち居振る舞いや衣装について助言していたと証言している。

プロレスラーと女優という異なる分野のスターが、それぞれの仕事を尊重しながら家庭を築いていたことが、当時の夫婦関係の特徴だった。

【離婚】1987年に別れた理由は?浮気証言と当時の報道を検証

華やかな結婚生活を送っていた二人だったが、結婚から16年目にあたる1987年、離婚という決断を下した。

当時の東スポの取材記録によると、二人は1987年9月末に離婚届に署名し、10月初めに猪木の本籍地だった横浜市鶴見区役所に提出したという。

離婚の理由について、二人はマスコミに話さないという約束をしており、本人たちから詳しい説明はなかった。

当時の報道では「発展的離婚」と説明されていた

離婚発覚当時、東スポの取材に応じた二人の知人は、夫婦の決断について次のように説明している。

「人生に一つの踏ん切りをつけるための発展的離婚」

同じ知人は、猪木の巨額の借金や、倍賞と俳優・萩原健一との不倫関係が離婚の直接的な理由だという見方についても、憶測にすぎないと説明していた。

つまり、1987年当時は、本人たちが離婚理由を公にせず、周囲も夫婦間の問題について詳しく語らない状況だった。

2026年、実弟・猪木啓介氏が明かした浮気の証言

離婚理由をめぐる状況に新たな情報を加えたのが、2026年7月の文春オンラインの記事だ。

同記事は、猪木の実弟である猪木啓介氏が著書『証言 アントニオ猪木 絶望と復活の闘魂人生』で語った内容を紹介している。

啓介氏は兄の女性関係について、次のように証言した。

「兄貴の浮気もありましたから」

啓介氏によると、猪木の知名度を背景に女性が近づくことがあり、兄はそうした誘いを断ることが得意ではなかったという。

啓介氏が新日本プロレスの営業を担当していた時期には、周囲が女性との接触を防ぐように動いていた。しかし、新日本プロレスの体制が変わり、啓介氏自身もブラジルへ戻ったことで、以前のような歯止めが利かなくなったと振り返っている。

さらに啓介氏は、倍賞について「素晴らしい義姉」と評価し、兄にとって離婚は大きな痛手だったと語った。

この証言は、当時の夫婦が公表しなかった離婚の背景について、猪木の身内から示された重要な回顧証言である。ただし、夫婦双方が公表した離婚理由ではなく、兄の近くにいた弟による後年の証言として位置づける必要がある。

離婚理由をめぐる情報の整理

二人の離婚については、当時の報道と2026年の証言を分けて見ると、情報の違いが理解しやすい。

時期・情報源 内容 確認できるポイント
1987年10月・当時の東スポ報道 離婚届の提出が報じられる 9月末に署名、10月初めに提出
1987年・関係者の説明 発展的離婚との説明 借金や倍賞の不倫説は憶測と説明
2022年・東スポの回顧記事 離婚理由について夫婦は沈黙を守った 2002年の再会についても紹介
2026年7月・猪木啓介氏の証言 猪木の浮気があったと回顧 女性関係が離婚の背景の一つだったと示唆
2026年4月・女性自身の報道 事業の失敗や不倫騒動を背景として紹介 晩年の見舞いや離婚後の交流も報じる

なお、離婚年については一部の後年記事で1988年と記載されることもある。しかし、当時の東スポの取材記録では1987年10月初旬の離婚届提出が具体的に記されているため、二人の離婚は1987年として整理するのが妥当だ。

また、倍賞側の不倫説と、猪木の女性関係についての弟の証言は、まったく別の情報である。両者を混同しないことが、離婚の経緯を理解するうえで大切になる。

【離婚後の関係】2002年の再会と猪木の晩年に倍賞美津子が見舞いへ

1987年に離婚した二人だが、その後、完全に関係が途絶えたわけではなかった。

倍賞は2001年の週刊文春のインタビューで、猪木との別れについて、好きで一緒になったのだから、その後のことをあれこれ言わないという約束をした趣旨を語っている。

加えて、離婚から十数年後にホテルで偶然再会した際には、かつての夫婦というより、昔の同級生と再会したような感覚で、何人かと一緒にお茶を飲んだという。

2002年、新日本プロレス30周年記念イベントで再会

二人が公の場で再び顔を合わせたのは、2002年5月2日に開催された新日本プロレス創立30周年記念興行だった。

東京ドームで行われたイベントに倍賞がサプライズゲストとして登場。離婚後、約15年ぶりとなる公の場での再会だった。

東スポの当時の取材記録によると、倍賞は久しぶりにリングに上がった感想を語り、猪木との再会も大きな話題になった。

離婚した二人が同じリングに立つという出来事は、単なる芸能ニュースを超えて、長年のプロレスファンにとっても印象深い場面となった。

猪木の晩年、倍賞が病床を訪れていたという報道

2022年10月1日、アントニオ猪木は心不全のため79歳で亡くなった。

その晩年について、2026年4月の女性自身は、倍賞が猪木の病床をたびたび訪れていたと報じている。

同誌によると、闘病中の猪木は病室への立ち入りが限られていたものの、倍賞は見舞いに訪れることができ、猪木も彼女の訪問に笑顔を見せていたという。

また、二人が新婚時代を過ごした渋谷のマンションでの日々について、懐かしく語り合っていた可能性も関係者の証言として紹介された。

倍賞自身も、2003年の雑誌『SAY』のインタビューで、猪木との結婚生活を振り返り、次のような趣旨の言葉を残している。

「人を一生懸命愛した記憶って、たとえそれが別れにつながっても、素晴らしいことなんだって改めて思いました」

この言葉からは、離婚したという事実だけでは整理できない、二人の時間に対する倍賞の思いが伝わってくる。

離婚後の関係について、復縁や再婚の事実はない。一方で、長い年月を経ても互いの存在が人生の中に残っていたことは、2002年の再会や晩年の見舞いに関する報道からもうかがえる。

【2026年現在】倍賞美津子は80歳を迎える現役女優

倍賞美津子は1946年11月22日生まれ。2026年11月6日時点では79歳で、同月22日に80歳の誕生日を迎える。

アントニオ猪木が亡くなった後も、倍賞は女優として活動を続けている。長年にわたり映画やテレビドラマで幅広い役柄を演じてきた実力派俳優だ。

2025年から2026年にかけても出演作が続く

近年の出演作には、2024年公開の映画『52ヘルツのクジラたち』、2025年配信のドラマ『ガンニバル』シーズン2などがある。

さらに2026年には、UNDERCOVER PRODUCTIONが制作した映画『UNDERGIRL』に出演。中島セナ、松田龍平、水原希子らと共演した。

『UNDERGIRL』は2026年9月14日から20日まで東京・渋谷で期間限定上映され、11月13日から19日には大阪・心斎橋PARCOのシアタス心斎橋での上映も予定されている。作品の公式情報でも倍賞の出演が確認できる。

こうした活動を見ると、倍賞美津子は2026年現在も俳優として仕事を続けていることが分かる。

倍賞美津子の女優としての評価

倍賞の魅力は、若い時代の華やかなヒロイン役だけにとどまらない。年齢を重ねるにつれて、母親役や人生経験を感じさせる人物など、幅広い役柄を演じてきた。

代表作には、映画『復讐するは我にあり』『影武者』『楢山節考』『恋文』『うなぎ』などがある。テレビドラマでも『3年B組金八先生』『龍馬伝』『半沢直樹』『下町ロケット』などに出演している。

猪木との結婚や離婚が大きな話題になった一方で、倍賞は自身のキャリアを長く築いてきた女優でもある。2026年の出演作は、彼女の活動が過去の話題だけにとどまっていないことを示している。

【アントニオ猪木と倍賞美津子】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:アントニオ猪木と倍賞美津子はいつ結婚しましたか?

A1:1971年に結婚し、同年11月2日に京王プラザホテルで結婚披露宴を開催しました。総額約1億円と伝えられる豪華な挙式は、当時大きな話題になりました。

Q2:二人の離婚理由は浮気だったのでしょうか?

A2:1987年の離婚当時、二人は理由を公表していません。2026年には実弟の猪木啓介氏が、兄の浮気があったと証言しています。ただし、夫婦が公式に発表した離婚理由ではありません。

Q3:アントニオ猪木と倍賞美津子の娘は誰ですか?

A3:娘は猪木寛子さんです。猪木は生前、娘について講演などで語っていました。また、2022年の猪木のお別れの会にも寛子さんが参列したと報じられています。

Q4:離婚後、二人は会っていたのでしょうか?

A4:はい。2002年5月の新日本プロレス創立30周年記念興行で公の場で再会しています。また、倍賞は離婚から十数年後にも猪木と偶然会い、知人を交えてお茶を飲んだと過去のインタビューで語っています。

Q5:倍賞美津子は2026年現在何歳ですか?

A5:1946年11月22日生まれの79歳です。2026年11月22日に80歳を迎えます。現在も女優として活動し、2026年公開の映画『UNDERGIRL』にも出演しています。

Q6:倍賞美津子は猪木の晩年に見舞いへ行っていたのですか?

A6:2026年4月の女性自身の記事によると、倍賞は闘病中の猪木の病床をたびたび訪れていたとされています。離婚後も二人の間には長年にわたる交流があったことがうかがえます。

アントニオ猪木と倍賞美津子は、豊登の紹介をきっかけに知り合い、1960年代後半に関係を深めた。1971年11月2日に京王プラザホテルで結婚披露宴を開き、娘の寛子さんにも恵まれた。

しかし、1987年10月には離婚。離婚当時は本人たちが理由を公表しなかったものの、2026年には猪木の実弟・猪木啓介氏が兄の女性関係について証言し、長年語られてきた離婚の背景に新たな情報が加わった。

一方、離婚によって二人の過去が否定されたわけではない。2002年の再会、倍賞が過去の結婚生活を肯定的に振り返った言葉、そして猪木の晩年に病床を訪れていたという報道は、二人の関係が単純な元夫婦という言葉だけでは説明できないことを示している。

【プロの結論】

この二人の関係を理解するうえで重要なのは、結婚の華やかさ、離婚の原因、離婚後の交流をそれぞれ分けて考えることだ。

1億円挙式は猪木のプロレス界に対する強い思いを象徴し、離婚は夫婦それぞれの人生における大きな転機だった。そして、その後も互いを否定せず、長い時間を経て再会したことには、二人が共有した人生の重みが表れている。

アントニオ猪木は2022年に79歳で亡くなった。一方、倍賞美津子は2026年に80歳を迎え、現在も女優として活動している。昭和を代表するビッグカップルの物語は、華やかな結婚と離婚だけでなく、別々の道を歩んだ後にも残り続けた思いという視点から振り返ることができる。

主な取材・参照資料

同じカテゴリの記事

倉持 玲奈

テクノロジー分野を担当。一次情報(公式発表・公式サイト)と発表日を必ず確認し、推測は推測と明記する編集方針に従っています。

おすすめの関連記事