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【19歳で人生が一変】スカルノ大統領との出会いから結婚まで

倉持 玲奈 倉持 玲奈 • 更新: • 公開: • 読了約 13 分
目次

デヴィ夫人の人生最大の転機は、19歳だった1959年のスカルノ大統領との出会いです。

相手は、インドネシア独立の中心人物であり、初代大統領を務めたスカルノです。

スカルノ大統領との出会いは偶然だった?

2017年4月の日刊スポーツの記事によると、デヴィ夫人はテレビ番組で、スカルノ大統領との出会いについて振り返っています。

当時、スカルノ大統領がプライベートで日本を訪問しており、デヴィ夫人は友人と映画を見に行くために待ち合わせをしていました。

そこへ大統領一行が偶然通りかかり、声を掛けられたことが交流の始まりだったといいます。

その後、日本の歴史にも詳しい大統領と話が弾み、親交が深まっていきました。

ただし、出会いの場所や経緯については資料によって異なる説明もあります。

インドネシアの大統領関係史料を紹介する公文書館の解説では、1959年6月16日にスカルノ大統領が赤坂のクラブを訪れ、根本七保子と出会ったという記録を紹介しています。また、1958年に出会ったとする別説にも触れています。

つまり、出会いの細かな場面には複数の伝承がありますが、19歳前後に大統領との関係が始まり、インドネシアへ渡ることになったという大きな流れは共通しています。

3か月の文通を経てインドネシアへ

ORICON NEWSによると、二人は出会った後、約3か月間にわたって文通を続けました。

その後、デヴィ夫人はインドネシアへ渡ります。

当時の日本とインドネシアは、戦後賠償や経済協力などを通じて関係を深めていた時期でした。スカルノ大統領にとっても、日本との外交関係は重要な課題の一つでした。

彼女のインドネシア行きは、個人的な恋愛だけでなく、当時の国際情勢や両国の関係とも重なる出来事だったのです。

22歳でスカルノ大統領の第3夫人に

デヴィ夫人は、インドネシアに渡った後、スカルノ大統領の夫人となりました。

日本の講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は、1962年に第3夫人となったと記録しています。女性自身の2018年のインタビュー記事でも、1962年にスカルノ大統領と結婚し、インドネシア国籍になったと紹介されています。

結婚時の年齢は22歳です。

なお、婚姻日の細部については、インドネシアの大統領公文書館の解説に、1962年3月3日と1964年5月という二つの説が記載されています。同館の解説は1962年説が正しい可能性が高いとしています。

ここで押さえておきたいのは、19歳で出会ったことと、22歳で正式に大統領夫人になったことは別の出来事だという点です。

「19歳でスカルノ大統領と結婚した」という説明は、出会いと結婚を混同している可能性があります。

【ハーフ説の真相】東洋の真珠と呼ばれた理由とは?

デヴィ夫人若い頃

デヴィ夫人の若い頃の写真を見た人からは、「日本人離れした顔立ち」「ハーフなのでは?」という疑問が生まれることがあります。

しかし、公開されている公的な人物情報や本人の生い立ちに関するインタビューには、ハーフであることを裏付ける記載はありません。

ハーフ説は事実なのか

確認できるプロフィールでは、デヴィ夫人は1940年に東京で生まれ、日本名は根本七保子とされています。

本人もインタビューで、東京・霞町の家庭で育ったことや、大工だった父親、母親との生活について語っています。

したがって、外見だけを根拠にハーフと判断することはできません。少なくとも、ハーフという説を裏付ける確かな公的資料は確認できません。

「東洋の真珠」という称号の由来

デヴィ夫人の名前とともに語られる有名な表現が、「東洋の真珠」です。

これは、彼女がパリをはじめとする世界の社交界で活動していた時期に称された呼び名です。

オフィス・デヴィ・スカルノの公式プロフィールにも、政変後の1967年にパリへ亡命し、社交界で「東洋の真珠」とうたわれた経歴が記されています。

女性自身のインタビューでも、パリの社交界でその評判が日本に伝わったことが紹介されています。

この称号は、単純に顔立ちだけを評価したものではありません。

- インドネシア大統領夫人としての国際的な経歴
- 各国の王侯貴族や著名人との交流
- 洗練されたファッションや装い
- 社交界での存在感と独自の個性

こうした複数の要素が、彼女の国際的な評価につながりました。

特に重要なのは、「東洋の真珠」と呼ばれた時期が、10代の日本での生活ではなく、インドネシアを経てパリの社交界に入った後だという点です。

大統領夫人になった後も波乱は続いた

デヴィ夫人の人生は、結婚によって順風満帆になったわけではありません。

1965年、インドネシアで軍事クーデターが起き、スカルノ大統領は政治的な影響力を失っていきます。

デヴィ夫人は当時、娘を身ごもっており、日本へ帰国。その後、娘を連れてフランスへ亡命しました。

本人が金融広報中央委員会のインタビューで語ったところによると、インドネシアに渡った直後には、支え続けてきた母親と弟を相次いで亡くすという悲しい経験もしています。

大統領夫人という華やかな立場の裏には、家族との別れや政治的な混乱もあったのです。

【年表で比較】デヴィ夫人の若い頃から2026年現在まで

ここまでの経歴を整理すると、デヴィ夫人の人生には大きく分けて、日本での少女時代、インドネシアでの大統領夫人時代、パリの社交界での活動、そして日本でのタレント活動という転換点があります。

年代・年齢 関係する人物・組織 主な出来事
1940年・0歳 根本家 東京で誕生
幼少期 父・母 西麻布の家庭で育つ。経済的に苦しい生活を経験
10代前半 母親・学校 絵画を学び、母を支えることを決意
10代半ば 千代田生命・都立三田高校 保険会社で働きながら定時制高校に通う
17〜18歳 赤坂の高級クラブ 接客業に従事。経済的な自立を進める
1958年・18歳 スカルノ大統領 大統領に送ったとされる写真が残る
1959年・19歳 スカルノ大統領 出会いを経てインドネシアへ
1962年・22歳 スカルノ大統領 第3夫人となる
1965〜67年 インドネシア政変 大統領失脚後、日本を経てパリへ亡命
1970年・30歳 スカルノ元大統領 夫と死別
1990年代 海外事業・ニューヨーク 国際的な活動を続ける
2000年前後〜 日本のテレビ局 日本でタレントとしての活動を本格化
2026年・86歳 オフィス・デヴィ・スカルノ 日本を活動拠点にメディア出演や社会活動を展開

若い頃と現在の姿を比較すると?


10代後半〜20代

若々しい顔立ち、長い髪、シンプルで上品な装い

現在・2026年

華やかな衣装、宝石、洗練されたメイクと強い存在感

若い頃と現在を比較すると、ファッションやメイクの方向性には明確な変化があります。

若い頃は、自然な髪型やシンプルな服装でも目を引く美しさが特徴でした。一方、現在は華やかな衣装や大ぶりのアクセサリーを組み合わせ、自分自身の個性を積極的に表現しています。

オフィス・デヴィ・スカルノの公式プロフィールでも、優雅で煌びやかな衣装や独特の存在感が、テレビでの活動における特徴として紹介されています。

興味深いのは、彼女が50歳を迎えた頃に、新しい人生を歩む決意をしたと本人が語っていることです。

金融広報中央委員会のインタビューでは、「スカルノ大統領夫人」という肩書きから離れ、自由な生き方をしたいと考えたことが、その後の活動の転換点になったと説明しています。

日本のテレビ番組への出演が増えたのも2000年前後でした。ニューヨークと東京を往復しながら仕事をするようになり、本人も新聞で「タレントのデヴィ夫人」と紹介されて驚いたと振り返っています。

2026年11月現在、デヴィ夫人は86歳です。公式プロフィールでは、日本を活動拠点として、テレビ出演、講演、コメンテーター活動、NPOを通じた慈善活動などを展開していると紹介されています。

【プロの結論】デヴィ夫人の若い頃から読み解く3つのポイント

デヴィ夫人の経歴を振り返ると、単に美しい女性が大統領に見初められて人生を変えたという説明だけでは、彼女の歩みを十分に理解できません。

特に注目したいのは次の3点です。

1. 美貌だけでなく、経済的な自立を目指していたこと

10代から保険会社や喫茶店で働き、家族を支えようとしていました。若い頃の経歴には、華やかさとは異なる努力の積み重ねがあります。

2. 国際的な環境に適応する力を持っていたこと

赤坂の高級クラブでの経験、スカルノ大統領との交流、インドネシアへの移住、パリの社交界での活動と、異なる環境に身を置き続けてきました。

3. 人生の転換点で新しい道を選んできたこと

大統領夫人という立場を失った後も、海外での事業や社交活動を続け、50歳以降は日本のテレビ業界でも新たなキャリアを築きました。

これらを踏まえると、デヴィ夫人の若い頃を調べる際には、写真の美しさだけでなく、撮影年代、当時の職業、人生の転換点を一緒に確認することが大切です。

【デヴィ夫人の若い頃】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:デヴィ夫人の若い頃の写真は何歳のものがある?

A1:16歳当時の写真や、1958年にスカルノ大統領へ送った18歳当時の写真などがテレビ番組や報道記事で紹介されています。27歳当時に娘カリナさんを抱いた写真も、本人の公式ブログで公開されています。

Q2:デヴィ夫人の本名は根本七保子?

A2:はい。日本名は根本七保子です。結婚後のインドネシア名はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノです。

Q3:デヴィ夫人はハーフなの?

A3:ハーフであることを裏付ける確かな公的資料はありません。東京生まれで、日本名は根本七保子です。顔立ちだけを理由にハーフと判断することはできません。

Q4:デヴィ夫人は若い頃、どこで働いていた?

A4:千代田生命保険会社に勤務し、喫茶店でアルバイトをしていました。その後、10代後半に赤坂の高級クラブでも働いていました。

Q5:デヴィ夫人は何歳でスカルノ大統領と結婚した?

A5:19歳の1959年にスカルノ大統領と出会い、インドネシアへ渡りました。正式な結婚は22歳の1962年とする日本の人物辞典や報道資料があります。大統領の第3夫人となりました。

Q6:「東洋の真珠」と呼ばれたのはいつ?

A6:インドネシアの政変後、フランスへ亡命してパリの社交界で活動していた時期です。国際的な社交界での評判を表す呼び名として知られています。

デヴィ夫人の若い頃を振り返ると、10代の写真に残る美しさだけでなく、その背景にある生い立ちや努力が見えてきます。

1940年に東京で生まれた根本七保子は、経済的に厳しい家庭で育ち、定時制高校に通いながら保険会社や喫茶店で働きました。その後、赤坂の高級クラブで働くようになり、19歳でスカルノ大統領と出会います。

22歳でインドネシアの第3夫人となり、政変後はフランスへ亡命。パリの社交界で「東洋の真珠」と称され、やがて日本のテレビでも広く知られる存在になりました。

若い頃のデヴィ夫人を理解する鍵は、美貌・経済的自立・国際的な経験という3つの要素にあります。

18歳当時の写真は、その後の華やかな人生の出発点を伝える貴重な記録です。現在の姿と見比べることで、時代や環境に合わせて自分の魅力と生き方を磨いてきた、デヴィ夫人の長い人生がより鮮明に浮かび上がります。

主な参考資料:株式会社オフィス・デヴィ・スカルノ公式プロフィール、国立国会図書館典拠データ、金融広報中央委員会「くらし塾 きんゆう塾」本人インタビュー、ORICON NEWS、日刊スポーツ、女性自身、講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』。

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テクノロジー分野を担当。一次情報(公式発表・公式サイト)と発表日を必ず確認し、推測は推測と明記する編集方針に従っています。

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