舘ひろしさんは、1950年3月31日生まれ、愛知県名古屋市出身です。本名は舘廣(たち・ひろし)。幼少期は医師の父親のもとで育ち、家庭では比較的厳しいしつけを受けていたことを、2024年放送の日本テレビ系「しゃべくり007」で明かしています。
出身小学校は名古屋市立新栄小学校?舘ひろしさんの出身小学校については、芸能人の学歴を扱う民間情報サイトなどで、名古屋市立新栄小学校の名前が挙げられています。
ただし、所属事務所の公式プロフィールや本人の公式略歴には小学校名の記載がありません。民間サイト側も推定として紹介しているため、確定した出身校として扱うことはできません。
中学校は名古屋市立白山中学校とされるが、公表情報には注意中学校についても、名古屋市立白山中学校が出身校として紹介されることがあります。
一方、こちらも本人や所属事務所による明確な公表情報は見当たりません。
舘さんは2025年11月放送の「しゃべくり007」で、中学時代にいじめを経験し、そこから不良になったことを振り返っています。
当時は医師になることを期待される家庭環境にありましたが、思春期には周囲との関係や自身の生き方に悩んだ時期もあったようです。
その後、高校で出会ったラグビーが転機になります。
単に進学校に進んだというだけでなく、スポーツを通じて生活や考え方が変わっていったことが、舘さんの学生時代を理解するうえで興味深いポイントです。
【出身高校】愛知県立千種高等学校でラグビー部主将を務めた青春時代

愛知県名古屋市名東区・公立高校
舘ひろしさんの出身高校
舘ひろしさんの出身高校は、愛知県名古屋市にある愛知県立千種高等学校です。
舘プロの公式プロフィールでも、千種高校時代にラグビー部の主将として活躍したことが紹介されています。
千種高校の偏差値は2026年度で63〜67千種高校は愛知県内でも進学実績で知られる公立高校です。
2026年度版の「みんなの高校情報」に掲載されている偏差値は次のとおりです。
| 学科 | 偏差値 |
|---|---|
| 普通科 | 67 |
| 国際教養科 | 63 |
出典:みんなの高校情報・2026年度版。模試などに基づく入試難易度の目安です。
なお、この数値は現在の入試難易度です。舘さんが在籍していた1960年代の偏差値に、そのまま当てはめることはできません。
ラグビー部では2年時に主将として県ベスト8舘さんの高校時代を語るうえで欠かせないのがラグビーです。
2019年7月の日刊スポーツのインタビューでは、千種高校でラグビーを始め、俊足のウイングとしてプレーしていたことが紹介されました。
特筆すべきは、高校2年時に主将を務め、チームを愛知県大会ベスト8に導いたという実績です。
さらに3年生になっても競技への思いは強く、周囲の生徒が大学受験を理由に引退するなか、最後までラグビーを続けたと報じられています。
本人は同インタビューで、ラグビーについて次のように語っています。
「僕の原点はラグビーにあると思っている」
日刊スポーツの取材で紹介されたこの言葉からも、ラグビーが単なる高校時代の部活動ではなかったことが伝わります。
ラグビーが舘ひろしの俳優人生にもたらしたものラグビーには、個人の能力だけでは勝てないチームスポーツとしての特徴があります。
自分を犠牲にして仲間を支える姿勢、相手や審判への敬意、苦しい場面でも役割を果たす責任感。
舘さんは後年、こうしたラグビー精神を自身の俳優活動の原点として位置づけています。
2015年と2019年には、日本テレビのラグビーワールドカップ日本代表応援団長も務めました。
高校時代に夢中になった競技との縁が、芸能活動を始めた後も続いていたわけです。
【医学部受験と2浪】舘ひろしが医師を目指していた理由と進路変更の真相
舘ひろしさんの学歴で、意外性のあるエピソードが医学部受験です。
現在のダンディーな俳優像からは想像しにくい可能性がありますが、若い頃の舘さんは医師を志していました。
父親が医師だったことが進路選択に影響舘さんの父親は医師で、弟も医師として働いていることを本人がテレビ番組で明かしています。
医師という職業が身近にある家庭環境だったため、舘さん自身も幼少期から医師になることを意識していたそうです。
2024年4月28日放送のフジテレビ系「だれかtoなかい」では、医学部を受験したものの不合格となり、初めて受験の厳しさを実感した経験を振り返りました。
日刊スポーツの番組内容に関する報道によると、舘さんは医学部受験に失敗した後、1浪し、2浪目から東京で勉強することを考えたものの、次第に遊びに夢中になったと語っています。
舘ひろしは本当に2浪した?はい。本人のテレビでの説明から、医学部受験に失敗した後、2年間にわたる浪人生活を送ったことが分かります。
当時の経緯を整理すると、次のようになります。
- 高校卒業後、医学部を受験する。
- 最初の受験に失敗し、1年間浪人する。
- 2浪目に東京で勉強することを考える。
- 医学部への進学を断念し、別の進路を選ぶ。
2浪目の東京での生活について、本人は遊びに夢中になったことも率直に話しています。
2024年の番組では、当時の自分を振り返り、医学部に合格できなかったことが人生の方向を変えるきっかけになったと説明しました。
医師志望から建築家志望へ変わった理由医学部を諦めた舘さんが次に選んだのは建築の道でした。
その理由として本人が挙げているのが、もともと絵を描くことが好きだったことです。
建築に興味を持ち、千葉工業大学工学部建築学科への進学を決めました。
同番組では、医学部に進めなかったことをきっかけに、それまでの勉強への向き合い方も変わったと振り返っています。
ここで注目したいのは、建築学科への進学が単なる医学部受験の失敗による妥協ではなかったことです。
絵が好きという本人の関心と、建築という専門分野が結びついた進路変更でした。
医学部受験の挫折を経験しながらも、まったく異なる分野に自分の可能性を見いだしたことが、後の人生につながっていきます。
【出身大学】千葉工業大学工学部建築学科に進学!中退した理由とは?
工学部建築学科
1970年4月入学・2021年卒業
舘ひろしさんの出身大学は、千葉県習志野市に本部を置く千葉工業大学です。
進学した学科は、工学部建築学科でした。
舘プロの公式プロフィールにも、千葉工業大学工学部建築学科卒業と明記されています。
1970年4月に千葉工業大学へ入学舘さんは1970年4月、千葉工業大学工学部建築学科に入学しました。
当時の本人は建築の勉強に取り組む一方、オートバイにも強い関心を持っていました。
大学時代の生活については、2019年のテレビ番組関連の報道でも、経済的に余裕のない学生生活やバイクに夢中になったエピソードが紹介されています。
大学4年時には映画出演の機会も訪れ、学業より芸能活動に比重を置くようになっていきました。
大学中退の理由は芸能活動の多忙化舘さんが千葉工業大学を中退した理由は、芸能活動が忙しくなり、大学に通えなくなったためです。
所属事務所の公式略歴によると、1976年には映画『暴力教室』で俳優デビューしています。
大学4年時に映画デビューを経験したことで、それまで以上に芸能活動へ時間を割くようになりました。
本人は家庭画報のインタビューで、映画デビュー以降は大学にほとんど通わなくなり、休学することになったと振り返っています。
その後、8年間の休学を経て中退という経緯をたどりました。
母親が10年間も学費を払い続けていたこの大学時代のエピソードには、母親の存在も深く関係しています。
当時、芸能界は安定した職業とはいえず、家族は舘さんがいつか大学に戻る可能性を考えていたそうです。
そのため、母親は休学中も大学に戻れるように、本人に内緒で学費を納め続けていました。
家庭画報のインタビューで舘さんが明かしたところによると、母親は名古屋から千葉県の津田沼キャンパスまで足を運び、10年間にわたって学費を納めていたといいます。
しかも、単に学費を支払うだけでなく、菓子折りを持参して大学に通っていたことも、後になって本人が知ったそうです。
この話からは、俳優としての将来がまだ見通せなかった時期に、家族が大学という戻れる場所を残そうとしていたことがうかがえます。
中退を決定づけた石原プロの存在大学を正式に中退することになった背景には、石原プロモーションの関係者の働きかけもありました。
舘さんのインタビューによると、ドラマ『西部警察』に出演していた頃、石原プロモーションの小林正彦専務が両親を呼び、俳優として今後も活動できる見通しがあることを伝えたそうです。
その話し合いを経て、大学を退学することになりました。
つまり、大学中退は単純に学業を放棄したという話ではありません。
俳優としての仕事が軌道に乗り始め、本人の将来と家族の考えが少しずつ変わっていった結果でもありました。
【経歴年表】舘ひろしの学歴から芸能界入り、51年越しの大学卒業まで
ここで、舘ひろしさんの学生時代から芸能界入り、大学卒業までの流れを時系列で整理します。
千葉工業大学への入学から卒業までの長い年月には、休学、中退、俳優としての成功、そして大学による特別卒業認定という複数の転換点がありました。
| 時期 | 出来事・所属 | 詳細 |
|---|---|---|
| 1950年 | 誕生 | 愛知県名古屋市生まれ |
| 小学校時代 | 幼少期 | 医師の父のもとで育つ |
| 中学校時代 | 思春期 | 本人がいじめや不良になった経験を回想 |
| 高校時代 | 愛知県立千種高校 | ラグビー部に所属 |
| 高校2年時 | ラグビー部主将 | チームを県大会ベスト8に導く |
| 高校卒業後 | 医学部受験 | 不合格となり浪人生活へ |
| 浪人時代 | 2年間 | 2浪目から東京で生活 |
| 1970年4月 | 千葉工業大学入学 | 工学部建築学科 |
| 1975年4月 | クールスで歌手デビュー | 「紫のハイウェイ」 |
| 1976年 | 俳優デビュー | 映画『暴力教室』 |
| 休学期間 | 大学を休学 | 芸能活動の多忙化により8年間休学 |
| 1980年代 | 大学中退 | 『西部警察』出演時期に退学 |
| 2021年3月22日 | 大学卒業 | 特別卒業認定制度で学位記授与 |
| 2026年 | 現在 | 76歳。公式プロフィール上も千葉工業大学卒業 |
1975年にレコードデビュー
舘ひろしがボーカルとして参加
大学時代に舘さんが熱中したものの一つがオートバイでした。
やがて東京・原宿を拠点に活動するオートバイチーム「クールス」に関わるようになり、1975年4月にはロックバンドのボーカルとしてレコードデビューします。
デビュー曲は「紫のハイウェイ」です。
翌1976年には映画『暴力教室』に出演し、俳優としてのキャリアもスタートさせました。
舘プロの公式略歴でも、クールスの団長から歌手デビュー、映画デビューへと進んだ経緯が紹介されています。
俳優としての成功と『西部警察』『あぶない刑事』石原プロモーションの作品に出演し、俳優として知名度を高めた時期の代表作です。
1986年にテレビシリーズが始まり、舘さんの代表作となりました。
1983年2月8日には石原プロモーションに入社。
その後、1986年にテレビドラマ『あぶない刑事』で柴田恭兵さんと共演し、鷹山敏樹役で人気を確立しました。
クールでスタイリッシュな刑事役は、舘さんの俳優イメージを決定づけるものとなりました。
【51年越しの大学卒業】2021年に千葉工業大学の特別卒業認定制度で卒業
舘ひろしさんの学歴で最も注目を集めた出来事が、71歳での大学卒業です。
2021年5月15日、千葉工業大学の学報「NEWS CIT」で卒業が公表され、翌16日にはスポーツ紙などが一斉に報じました。
卒業証書が授与されたのは、2021年3月22日です。
千葉工業大学の特別卒業認定制度とは?今回の卒業は、通常の学生のように再入学して授業を受け直したものではありません。
千葉工業大学の特別卒業認定制度に基づいて、過去の在籍状況や取得単位、社会的な実績などを考慮して認定されたものです。
当時の報道で紹介された主な要件は次のとおりです。
- 大学に3年以上在籍していること。
- 卒業に必要な単位のうち100単位以上を取得していること。
- 学長の推薦があること。
- 社会的貢献に顕著な実績があること。
舘さんは卒業に必要な単位をほぼ取得しており、制度の要件を満たすと大学側が判断しました。
2021年3月22日、津田沼キャンパスで卒業証書を受け取る卒業証書の授与式は、千葉工業大学の津田沼キャンパスで行われました。
当時71歳だった舘さんは、学位記を受け取り、大学の卒業式にも出席。
加えて、卒業生に向けて祝辞を述べました。
長い時間を経て母校に戻り、今度は卒業生として若い学生たちに言葉を贈る立場になったのです。
スポニチの報道では、舘さんが卒業式で新しい社会を創造することへの期待を卒業生に伝えたことも紹介されています。
なぜ51年越しと報道されたのか?ここで、ネット上の記事によって「47年越し」「48年越し」「51年越し」と表現が異なる理由を整理しておきます。
舘さんが千葉工業大学に入学したのは1970年4月です。
一般的な4年間の大学生活であれば、1974年3月に卒業する計算になります。
一方、実際の卒業証書授与は2021年3月22日でした。
| 計算の基準 | 年数 |
|---|---|
| 1970年の入学から2021年の卒業まで | 約51年 |
| 1974年の通常卒業予定から2021年まで | 約47年 |
報道によって計算の起点が異なるため、47年や48年という表現も見られます。
しかし、1970年の入学から2021年の卒業までという意味では、約51年越しの卒業という説明が適切です。
2026年現在も大学卒業の事実は変わらない2026年11月現在、舘さんは76歳です。
舘プロの公式プロフィールでも、千葉工業大学工学部建築学科卒業と紹介されています。
つまり、現在の最終学歴は千葉工業大学卒業です。
「中退した俳優」という過去の情報だけで紹介されることがありますが、2021年に大学から正式に卒業証書を授与されているため、現在の学歴を中退とするのは正確ではありません。
【プロの結論】舘ひろしの学歴から分かる3つの意外な事実
舘ひろしさんの学歴は、単純に高校や大学の名前を並べるだけでは見えてこない特徴があります。
特に重要なのは、医学部受験、建築学科への進学、芸能活動による中退、そして71歳での卒業という一連の変化です。
1. 医学部に進めなかったことが人生の転換点になった舘さんは医師の父を持ち、自身も医師を目指していました。
しかし、医学部受験の失敗と浪人生活を経て、建築という異なる分野に進みます。
この選択が、大学での出会いやバイクチームへの参加、芸能界入りへとつながりました。
人生の進路は、最初に思い描いた職業だけで決まるわけではないということが分かります。
2. 大学中退は学力不足ではなく、芸能活動との両立が難しくなったため大学中退についても、誤解しやすい部分です。
舘さんは卒業に必要な単位をほぼ取得していたと報じられています。
大学を離れた大きな理由は、映画やテレビへの出演が増え、学業との両立が困難になったことでした。
8年間の休学という経緯も、一般的な大学中退とは異なる特徴です。
3. 71歳での卒業は、過去の努力が形になった出来事2021年の卒業は、単に有名俳優が大学を卒業したという話ではありません。
若い頃に取得していた単位、長年にわたる母親の支援、俳優としての社会的な活動、大学独自の認定制度が結びついた結果です。
また、特別卒業認定制度は誰でも自動的に卒業できる制度ではありません。大学が定める要件を満たし、認定を受ける必要があります。
舘さんの事例からは、学歴というものが卒業した年齢だけで評価されるものではなく、本人の学びや社会での歩みとも関係していることが分かります。
【舘ひろしの学歴】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:舘ひろしの出身高校はどこですか?
愛知県立千種高等学校です。高校時代はラグビー部に所属し、2年時には主将を務め、チームを県大会ベスト8に導きました。
Q2:舘ひろしの出身大学はどこですか?
千葉工業大学工学部建築学科です。1970年4月に入学し、芸能活動による休学と中退を経て、2021年に特別卒業認定制度で卒業しました。
Q3:舘ひろしは医学部を受験していたのですか?
はい。医師だった父親の影響もあり、医学部を目指して受験しましたが不合格となりました。その後、2年間の浪人生活を経て、建築学科に進学しました。
Q4:舘ひろしが大学を中退した理由は何ですか?
大学4年時の映画デビュー以降、芸能活動が忙しくなったためです。8年間休学した後に中退しました。
Q5:舘ひろしは本当に71歳で大学を卒業したのですか?
はい。2021年3月22日に千葉工業大学から卒業証書を授与されました。大学の特別卒業認定制度による卒業です。
Q6:舘ひろしの2026年現在の最終学歴は?
千葉工業大学工学部建築学科卒業です。2026年現在も、所属事務所の公式プロフィールに卒業したことが掲載されています。
舘ひろしさんの学歴を振り返ると、医師を目指した高校卒業後の受験生活から、建築学科への進学、そして芸能界での成功まで、非常に変化に富んだ人生が見えてきます。
特に押さえておきたい要点は次のとおりです。
- 出身高校は愛知県立千種高等学校。
- 高校時代はラグビー部主将として活躍し、県大会ベスト8を経験。
- 医学部受験に失敗し、2浪を経て建築の道へ進んだ。
- 1970年に千葉工業大学工学部建築学科へ入学。
- 芸能活動が多忙になり、8年間の休学後に中退。
- 2021年3月22日、71歳で特別卒業認定制度による卒業を果たした。
2026年現在、舘ひろしさんの最終学歴は千葉工業大学卒業です。
医師になる夢を諦め、建築を学び、芸能界で長年活躍した後、71歳で大学卒業という節目を迎えた舘さん。
その歩みは、学歴だけでは測れない人生の可能性と、時間を経ても過去の学びが意味を持ち続けることを感じさせます。
舘ひろしさんの学歴を調べる際には、大学中退という過去だけでなく、2021年の正式な卒業まで含めて理解することが大切です。
主な参考資料:舘プロ公式プロフィール・略歴、千葉工業大学学報「NEWS CIT」(2021年4月15日号)、日刊スポーツ、スポニチ、J-CASTニュース、家庭画報、みんなの高校情報。