カオリ・ナラ・ターナーは、日本人として初めてエミー賞を受賞したハリウッドのメイクアップアーティストです。1933年に東京で生まれ、日本舞踊とタップダンスのダンサーとして活躍した後、アメリカに渡り、映画やテレビドラマの制作現場で独自のキャリアを築きました。2003年にはテレビドラマ『Alias(エイリアス)』のメイクアップでエミー賞を受賞。『フラッシュダンス』『ゴーストバスターズ』『キル・ビル』などにも携わっています。
2026年5月8日には、テレビ朝日系『徹子の部屋』に92歳で出演。夫ビル・ターナーとの香港での出会い、結婚式に立ち会ったスティーブ・マックイーン、88歳のときに経験したアメリカの自宅火災など、波瀾万丈の人生が改めて紹介されました。ハリウッドでの仕事だけでなく、日本文化の普及にも力を注いできた彼女は、どのような人生を歩んできたのでしょうか。
【プロフィール】カオリ・ナラ・ターナーは何者?年齢・生年月日・経歴を紹介

Primary Entity:Kaori Nara Turner/日本人メイクアップアーティスト
1933年東京生まれ、2026年5月時点で92歳カオリ・ナラ・ターナーは、1933年に東京都で生まれました。
幼少期から日本舞踊とタップダンスを学び、後に日本国内の舞台で活躍。若い頃から芸能の世界に身を置き、ダンサーとしての経験を積み重ねました。
2026年5月8日の『徹子の部屋』では、92歳のメイクアップアーティストとして紹介されています。
生年月日については、1933年生まれという情報は本人側の公式プロフィールや米国の日系新聞で確認できますが、誕生日の月日までは公表資料から特定できません。 そのため、2026年11月現在の満年齢を誕生日まで含めて断定することはできません。
基本プロフィール一覧| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | カオリ・ナラ・ターナー |
| 英語表記 | Kaori Nara Turner |
| 生年 | 1933年 |
| 出身地 | 東京都 |
| 2026年5月時点の年齢 | 92歳 |
| 若い頃の職業 | 日本舞踊・タップダンスのダンサー |
| 主な職業 | メイクアップアーティスト |
| 活動拠点 | アメリカ・ロサンゼルスを中心に活動 |
| 夫 | ビル・ターナー |
| 代表的な受賞 | 2003年エミー賞 |
| 日本政府からの栄誉 | 2008年旭日双光章 |
彼女の経歴を理解するうえで重要なのは、ハリウッドでの映画制作だけに活動を限定していなかったことです。
日本舞踊や着物といった日本の伝統文化をアメリカの人々に伝える活動にも取り組んできました。
2016年には、ロサンゼルスの日系コミュニティで開催される「二世週日本祭」のグランドマーシャルに選ばれています。
この役割は、単なる映画業界での功績だけでなく、日系社会と日本文化の橋渡しを続けてきた活動も評価されたものです。
【若い頃】日本舞踊とタップダンスのダンサーからハリウッドへ
幼少期から日本舞踊とタップダンスを習得カオリ・ナラ・ターナーは、幼い頃から舞台芸術に親しんでいました。
本人側のプロフィールによれば、日本舞踊とタップダンスを身につけ、12歳でプロデビュー。20歳でソロダンサーとなり、日本劇場(日劇)をはじめ、さまざまな舞台やテレビ、映画に出演したとされています。
一方、2016年の米国日系新聞『Rafu Shimpo』の記事では、6歳から日本舞踊、7歳からタップダンスを学び、14歳でプロのダンサーになったと紹介されています。
プロデビューの年齢には資料による違いがありますが、10代前半から舞台の世界で活動していたことは共通しています。
香港公演が人生を変えた彼女の人生を大きく変えたのが、1960年代半ばの香港公演でした。
香港では、映画『砲艦サンパブロ』(The Sand Pebbles)の撮影が行われていました。この作品に参加していたのが、ハリウッドのメイクアップアーティスト、ビル・ターナーです。
主演俳優はスティーブ・マックイーン。
ビルはダンサーとして舞台に立つカオリに魅了され、二人は出会うことになります。
この出会いが、後の結婚とアメリカ移住、そしてメイクアップアーティストへの転身につながっていきました。
ダンサー引退につながったケガアメリカに渡った後も、カオリはダンサーとして活動を続けていました。
しかし、ダンス中の事故で靱帯を負傷。膝のケガによって、それまでのように踊ることが難しくなり、ダンサーとしてのキャリアに終止符を打つことになります。
この出来事は、彼女にとって大きな転換点でした。
その後、夫ビルの仕事を手伝うようになり、メイクアップの技術を学び始めます。
ダンサーとして培った舞台メイクの経験が、次の職業で生かされることになったのです。
【ハリウッドでの功績】2003年エミー賞と『フラッシュダンス』の実績
1978年、日本人初のメイクアップ・アーティスト・ユニオン正会員にカオリ・ナラ・ターナーの実績を語るうえで外せないのが、アメリカの映画・テレビ業界における専門職としての地位です。
本人側のプロフィールによると、1978年、日本人として初めて全米メイクアップ・アーティスト・ユニオンの正会員になりました。
ハリウッドのメイクアップの仕事は、単に出演者の顔を美しく整えるだけではありません。
作品の設定に合わせて人物の外見を変えたり、身体の質感や肌の色を調整したり、特殊なメイクで物語の世界観を成立させたりする仕事です。
ダンサー時代に培った身体表現への理解と、舞台メイクの経験は、映画の現場でも強みになりました。
『フラッシュダンス』で注目されたボディメイク1983年公開の映画『フラッシュダンス』は、彼女の技術が広く知られるきっかけとなった作品です。
本人側のプロフィールでは、この映画でのボディメイクが高く評価され、一躍注目を集めたと紹介されています。
ボディメイクとは、顔だけでなく身体全体の色や質感、見え方を調整する技術です。
ダンサー時代に自分自身の舞台メイクを経験していた彼女にとって、身体を理解したうえでメイクを施す仕事は、それまでの経験を生かせる分野でもありました。
2003年、『Alias』でエミー賞を受賞彼女のキャリアにおける最大の節目は、2003年のエミー賞受賞です。
受賞対象となった作品は、アメリカのテレビドラマ『Alias(エイリアス)』。
テレビ芸術科学アカデミーの公式データベースには、次のように記録されています。
- 受賞年:2003年
- 部門:Outstanding Makeup For A Series (Prosthetic)
- 作品:Alias
- 受賞者として記録されたメイクアップアーティスト:Kaori Turner
この部門はシリーズ作品における特殊メイクを評価するものです。
重要なのは、彼女が単独で作品全体の賞を獲得したという意味ではないことです。公式記録では、メイクアップ部門の関係者としてアンジェラ・ノガロ、ダイアナ・ブラウンらとともに名前が掲載されています。
それでも、日本人メイクアップアーティストとして初めてエミー賞を受賞したという歴史的な意義は大きく、後に続く日本人クリエイターにとっても象徴的な実績となりました。
作品と関係者から見るキャリアの全体像彼女の仕事は、一つの映画やテレビドラマだけにとどまりません。
| 人物・作品 | 関係 | 主な内容 |
|---|---|---|
| ビル・ターナー | 夫・師匠 | メイクアップの技術を学ぶきっかけを作った |
| スティーブ・マックイーン | 夫婦の結婚に関わった人物 | 香港での出会いと結婚のエピソードに登場 |
| 『フラッシュダンス』 | 映画作品 | 1983年公開。ボディメイクで注目を集める |
| 『Alias』 | テレビドラマ | 2003年のエミー賞受賞対象 |
| 『チャーリーズ・エンジェル』 | 映画作品 | メイクアップ関連の参加作品 |
| 『ゴーストバスターズ』 | 映画作品 | メイクアップ関連の参加作品 |
| 『キル・ビル』 | 映画作品 | メイクアップ関連の参加作品 |
| 『ラスト・サムライ』 | 映画作品 | メイクアップ関連の参加作品 |
| 『アメリカン・ビューティー』 | 映画作品 | メイクアップ関連の参加作品 |
2010年に公開された『ディスカバー・ニッケイ』のインタビューでは、本人が映画制作に70本携わったと語っています。
これは、彼女の仕事が単発の成功ではなく、長年にわたる映画業界での継続的な活動だったことを示す数字です。
エミー賞以外の受賞・表彰歴2003年のエミー賞以外にも、カオリは日本とアメリカの双方で評価されています。
特に注目されるのが、2008年の旭日双光章です。
日本政府は、彼女の功績をたたえて叙勲しました。
ハリウッドでの専門職としての実績だけでなく、日本文化の紹介や後進の育成など、長年の活動も評価されたものです。
【夫ビルとの結婚】香港での出会いとスティーブ・マックイーンの立会い
夫ビル・ターナーはどんな人物?ビル・ターナーは、ハリウッドで活動していたメイクアップアーティストです。
カオリにとって、人生の伴侶であると同時に、新しい職業を切り開くきっかけを与えた人物でもありました。
二人の出会いは、香港でのダンス公演と映画撮影が重なったことによるものです。
ビルは映画『砲艦サンパブロ』の撮影に関わっており、カオリはダンサーとして香港を訪れていました。
結婚の経緯は?香港での運命的な出会い出会いのエピソードについて、2010年の『ディスカバー・ニッケイ』の記事は詳しく紹介しています。
ビルは舞台で踊るカオリに一目ぼれし、食事に誘った後、結婚を申し込んだとされています。
当時のカオリはダンサーとしての仕事に集中しており、最初はプロポーズを断りました。
それでもビルは諦めず、スティーブ・マックイーンも二人の結婚を後押ししたと伝えられています。
その後、二人は結婚しました。
結婚式の立会人はスティーブ・マックイーンこの結婚エピソードで特に印象的なのが、スティーブ・マックイーンの存在です。
マックイーンは映画『砲艦サンパブロ』の主演俳優で、二人の結婚を後押しした人物として紹介されています。
『ディスカバー・ニッケイ』の記事によると、結婚式は撮影に使われていた船上で行われ、マックイーンが仲人役を務めました。
加えて、同作品の監督ロバート・ワイズが花嫁の父親役を務めたというエピソードも残されています。
映画関係者が二人の結婚に関わったという、ハリウッドらしい印象的な出来事です。
結婚した年は1965年?1966年?結婚時期については、資料によって表記に違いがあります。
本人側のKNT公式プロフィールでは1965年に香港でビルと知り合い、結婚したと記載されています。
一方、米国の日系新聞『Rafu Shimpo』やメイクアップアーティストの業界団体Local 706の記事では、1966年に結婚したと紹介されています。
そのため、正確な結婚年については1965年と1966年の両方の記録が存在します。確実に押さえられるのは、二人が1960年代半ばに香港で出会い、結婚したという経緯です。
【88歳の自宅火災】アメリカの家で何が起きた?被害とその後
88歳のとき、アメリカの自宅が火災に遭うカオリ・ナラ・ターナーの人生には、晩年にも大きな試練がありました。
それが、88歳のときに経験したアメリカの自宅火災です。
2026年5月7日に公開されたテレビ朝日の番組関連記事でも、この火災について紹介されています。
火災によって失われたものは、建物や日用品だけではありませんでした。
夫ビルの遺品や思い出の品、長年大切にしてきたドレス、日本の着物なども焼失したとされています。
特に、夫との思い出が詰まった品々を失ったことは、物質的な損害以上に大きな出来事だったと考えられます。
火災当時の救出と支援活動火災の詳細については、同業者による支援活動の記録も残っています。
2022年7月6日に開設された支援ページでは、同業者のデビー・ゾラーが、88歳だったカオリの自宅で大きな火災が発生したと説明しています。
この支援ページによると、近隣でパーティーをしていた人々が火に気づき、彼女を救出したとされています。
また、住宅の半分が被害を受け、衣服や身の回りの品々も失われたと記されています。
同業者たちが支援を呼びかけたのは、長年ハリウッドの現場で仲間を支えてきた彼女を、今度は自分たちが助けたいという思いからでした。
火災の原因は判明している?検索時に気になるのが、火災の原因や事件性です。
しかし、テレビ朝日の番組紹介や同業者による支援記録には、出火原因を特定する情報は掲載されていません。
したがって、放火や事件性のある火災だったとする根拠はありません。
現在確認できる事実は、次のとおりです。
- 88歳のときにアメリカの自宅で火災が発生した。
- 近隣の人々による救出が支援ページで伝えられている。
- 夫の遺品や衣服、ドレス、着物などを失った。
- 本人は火災を生き延び、2026年5月にはテレビ番組に出演した。
火災そのものの詳細な原因よりも、長年大切にしてきた品々を失いながらも、その後の生活を続けていることが、この出来事の大きなポイントです。
【2026年現在】『徹子の部屋』出演と現在の活動・著書
2026年5月8日『徹子の部屋』に出演2026年5月8日、カオリ・ナラ・ターナーはテレビ朝日系の長寿トーク番組『徹子の部屋』に出演しました。
放送時間は午後1時から午後1時30分まで。
番組では、92歳となった彼女の波瀾万丈な人生が取り上げられました。
主な紹介内容は次のとおりです。
- 日本舞踊とタップダンスを学んだ若い頃
- 香港公演での夫ビルとの出会い
- スティーブ・マックイーンが立ち会った結婚
- ハリウッドでのメイクアップアーティストとしての活躍
- 88歳で経験したアメリカの自宅火災
テレビ朝日の公式番組案内でも、彼女は「92歳 火事にもめげず充実の日々を」というテーマで紹介されました。
2026年現在もハリウッドの仕事を続けている?ここは少し整理が必要です。
カオリの公式プロフィールには、ロサンゼルスを拠点に活動するメイクアップアーティストとしての経歴や、KNTブランドのファッションウィッグなどが紹介されています。
ただし、同ページに記載された年齢は81歳であり、現在の情報に更新されたプロフィールとはいえません。
一方、2024年のロサンゼルスの文化情報媒体『Cultural News』は、彼女がメイクアップアーティストとしての仕事からは退き、Star of Colorというメイクアップ・スキンケア関連ブランドやウィッグ事業に取り組んでいると紹介しています。
同年には、ロサンゼルスでの舞台公演企画にも携わり、90歳で地域の人々に向けた公演を実現しました。
したがって、2026年現在の姿を、現役の映画撮影スタッフとして仕事を続けていると単純に説明するのは正確ではありません。
長年の映画業界での経験を持ち、日本文化の紹介や地域活動にも携わってきた人物として捉えるのが適切です。
著書『メイクアップ ハリウッド』とは?著者:カオリ・ナラ・ターナー
出版社:角川書店
発売日:2001年11月19日
ページ数:208ページ
ISBN:9784048837118
彼女の仕事やハリウッドでの経験を知るうえで、重要な資料となるのが著書『メイクアップ ハリウッド』です。
2001年11月19日に角川書店から発売されました。
出版社の紹介によれば、映画スターたちの素顔や仕事を通じて知ったエピソードを紹介し、ハリウッドを目指す日本の若者に向けてメッセージを送る内容です。
映画の表舞台に立つ俳優ではなく、その人物像や作品の世界観を裏側から作り上げるメイクアップアーティストの視点で、アメリカ映画の現場を知ることができます。
また、本人側のプロフィールには、2008年刊行の『Make Up Life 女性力を上げる50の言葉』も主な著書として掲載されています。
日本文化の普及にも取り組んできたカオリの活動は、メイクアップだけではありません。
ハリウッドで働く人々に日本の着物や伝統的な美意識を紹介する活動も続けてきました。
2005年には、ハリウッドで着物のショーを開催。アメリカのメイクアップ関係者に日本の伝統文化を伝える機会を設けました。
また、2016年には二世週日本祭のグランドマーシャルに選ばれ、日系コミュニティにおける文化交流への貢献も評価されています。
映画のメイクアップという専門技術と、日本文化の紹介という二つの活動を長年続けてきたことが、彼女の経歴を特徴づけています。
【よくある質問】カオリ・ナラ・ターナーに関するFAQ
Q1:カオリ・ナラ・ターナーの年齢と生年月日は?
1933年東京生まれです。2026年5月8日の『徹子の部屋』出演時は92歳でした。誕生日の月日については公表資料で確認できません。
Q2:カオリ・ナラ・ターナーが受賞したエミー賞は何の作品?
2003年のテレビドラマ『Alias(エイリアス)』です。受賞部門は「Outstanding Makeup For A Series (Prosthetic)」で、テレビ芸術科学アカデミーの公式記録にも名前が掲載されています。
Q3:夫ビル・ターナーとの結婚式にスティーブ・マックイーンが出席したのは本当?
はい。『ディスカバー・ニッケイ』の記事では、マックイーンが二人の結婚を後押しし、結婚式の仲人役を務めたと紹介されています。結婚式には映画監督ロバート・ワイズも関わったとされています。
Q4:88歳の自宅火災で亡くなったという情報は本当?
いいえ。火災を経験しましたが、本人は無事に生き延びています。2026年5月8日には『徹子の部屋』にも出演しています。
Q5:現在もハリウッドでメイクアップの仕事をしている?
2024年の文化情報媒体では、メイクアップアーティストとしての仕事からは退き、Star of Colorなどの活動に取り組んでいると紹介されています。2026年には92歳でテレビ出演も果たしています。
カオリ・ナラ・ターナーは、1933年に東京で生まれ、ダンサーからハリウッドのメイクアップアーティストへと転身した人物です。
その人生には、いくつもの大きな転換点がありました。
- 幼少期から日本舞踊とタップダンスを学び、舞台で活躍。
- 香港でビル・ターナーと出会い、結婚。
- ダンス中のケガをきっかけにメイクアップの世界へ転身。
- 1978年、日本人初の全米メイクアップ・アーティスト・ユニオン正会員に。
- 2003年、ドラマ『Alias』でエミー賞を受賞。
- 2008年、旭日双光章を受章。
- 88歳でアメリカの自宅火災を経験。
- 2026年5月8日、92歳で『徹子の部屋』に出演。
彼女の経歴で特に注目したいのは、ダンサーとしてのキャリアを失った後も、別の専門技術を身につけて世界的な評価を獲得したことです。
2003年のエミー賞は、その努力が国際的に認められた象徴的な出来事でした。
また、夫との出会いやスティーブ・マックイーンが関わった結婚式、自宅火災という人生の出来事も、彼女の歩みを理解するうえで欠かせません。
カオリ・ナラ・ターナーは、単に日本人初のエミー賞受賞者という肩書だけで語れる人物ではありません。 自らの経験を新しい仕事につなげ、日本とアメリカの文化を結びながら長い人生を歩んできた、ハリウッド映画史に名を残す日本人クリエイターの一人です。