中後悠平さんは、千葉ロッテマリーンズでプロ野球選手としてキャリアをスタートさせ、戦力外通告、米国ダイヤモンドバックス傘下での挑戦、横浜DeNAベイスターズへの復帰を経験した元プロ野球投手です。独特の腕の振りから「千手観音投法」とも呼ばれた変則左腕として、野球ファンの記憶に残っています。
2026年8月25日付のデイリースポーツの取材記事によると、中後さんは現在、横浜DeNAベイスターズの球団職員として勤務。所属は「野球未来創造本部 パートナー共創部 第1アカウントグループ」で、営業の第一線を担当しています。現役引退後も野球界に身を置き、選手時代の経験を別の形で生かしているのです。
【2026年最新】中後悠平の現在は横浜DeNAの営業職

中後悠平さんの現在を知るうえで注目したいのは、プロ野球選手を引退した後も、同じ横浜DeNAベイスターズで働き続けている点です。
2026年8月25日付のデイリースポーツは、中後さんの現在の所属部署を「野球未来創造本部 パートナー共創部 第1アカウントグループ」と紹介しました。球団職員として営業の第一線に立ち、パートナー企業との関係づくりに携わっています。
2019年に現役を引退した後、2020年から球団職員として新たなキャリアをスタートさせました。引退後に野球教室の指導者や解説者になる元選手もいるなか、中後さんが選んだのは、球団の事業を支える営業職という道でした。
元投手が営業職を選んだ理由2021年6月のITmediaビジネスオンラインのインタビューでは、球団から職員として残る提案を受けた際、ベースボールスクールのコーチと営業部の選択肢が提示されたと語っています。
当初はコーチへの誘いだと考えていた中後さんにとって、営業職への配属は予想外の展開でした。ビジネス経験がほとんどない状態からのスタートでしたが、野球に関わり続けられることに魅力を感じ、営業の道を選択します。
選手としてグラウンドに立つ立場から、球団の運営やファン、スポンサーを支える立場へ。仕事の内容は大きく変わりましたが、野球とのつながりは途切れていません。
2026年も球団職員として活動2026年のデイリースポーツの記事では、営業の第一線で活躍する中後さんの姿が紹介されています。現役時代の経験を持つ人物が球団の事業部門で働いていることは、プロ野球選手のセカンドキャリアを考えるうえでも興味深い事例です。
なお、現在の役職や所属部署については、2026年8月25日付の同記事に記載された情報が最新の具体的な公開報道です。現役時代のように選手名鑑で登板成績を追うのではなく、球団の仕事を通じて野球界を支える人物として活動しています。
【経歴・プロフィール】近畿大学からロッテにドラフト2位入団
中後悠平さんは1989年9月17日生まれ、大阪府出身です。近畿大学附属新宮高校から近畿大学へ進み、2011年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから2位指名を受けました。
プロ入り前から注目されていたのは、一般的な投手とは異なる独特の投球フォームです。左投げの変則投手として、大学野球の舞台で頭角を現しました。
近畿大学時代に才能が開花意外なのは、高校時代から順風満帆な野球人生だったわけではないことです。
2022年5月に公開されたNIPPON EXPRESS「侍ジャパン」応援特設サイトのインタビューでは、近大新宮高校時代はメンバー外の期間が長く、公式戦で登板したのも3年生のときだったと振り返っています。
当初は大学で体育教師を目指すことも考えていました。近畿大学から声が掛かったことで進学し、野球を続けることになります。
大学2年生の春季リーグでは、10試合中9試合に登板して3勝0敗、防御率1.47を記録。チームの優勝に貢献し、自身もリーグ戦のMVPに選ばれました。
その後、全日本大学野球選手権大会で完投勝利を挙げ、日米大学野球選手権大会の大学日本代表にも選出されます。大学日本代表には計3度選ばれており、学生時代から高い評価を受けていました。
「千手観音投法」と呼ばれた変則左腕中後さんの特徴は、腕の位置を固定せず、上手投げ、横手投げ、下手に近い角度などを使い分ける独特のフォームです。
2026年のデイリースポーツの記事では、150キロ台の速球を投げ込むスタイルとともに、「千手観音投法」「和製ランディ・ジョンソン」という異名が紹介されています。
一般的な左腕投手とは異なるリリース要点は、打者にとってタイミングを取りにくい武器になりました。特に中継ぎ投手として、左打者との対戦や短いイニングでの起用に特徴を発揮するタイプでした。
2011年のドラフト2位という高い評価も、大学時代の実績と希少性のある投球スタイルが背景にありました。
【年表で整理】ロッテ戦力外からダイヤモンドバックスへの挑戦
中後さんの野球人生を語るうえで外せないのが、2015年のロッテ退団後に米国へ渡った経験です。
日本のプロ野球で戦力外となった選手が、独立リーグを経てメジャーリーグ球団の傘下に入るという展開は、当時大きな話題になりました。
中後悠平の主な経歴と転換点| 時期 | 所属・出来事 | 主な実績・内容 |
|---|---|---|
| 1989年 | 大阪府で誕生 | 9月17日生まれ |
| 大学時代 | 近畿大学 | 春季リーグMVP、大学日本代表に3度選出 |
| 2011年 | 千葉ロッテ | ドラフト2位指名 |
| 2012年 | ロッテでプロデビュー | 一軍27試合、2勝、防御率4.87 |
| 2015年 | ロッテを退団 | 戦力外通告を受ける |
| 2016年 | 武蔵ヒートベアーズ、ダイヤモンドバックス傘下 | マイナー契約を結び、3Aまで昇格 |
| 2017年 | ダイヤモンドバックス傘下 | 2A・3Aで計50試合に登板、防御率2.53 |
| 2018年6月 | ダイヤモンドバックス傘下を退団 | 2Aで24試合に登板後、リリース |
| 2018年7月 | 横浜DeNA | 入団テストを経てNPB復帰 |
| 2019年11月 | 現役引退 | DeNAから引退を発表 |
| 2020年以降 | 横浜DeNA球団職員 | 営業職として第二のキャリアを開始 |
| 2026年8月 | 横浜DeNA球団職員 | 営業の第一線で活動する姿が報道される |
この経歴は、横浜DeNAベイスターズの2018年獲得発表、日本野球機構の個人年度別成績、各社の取材記事などで確認できます。
2015年の戦力外通告から独立リーグへ2015年オフ、中後さんは千葉ロッテマリーンズから戦力外通告を受けました。
2012年のプロ1年目には一軍27試合に登板して2勝5ホールドを記録していましたが、その後は登板機会が減少。2013年、2014年は一軍でそれぞれ5試合の登板にとどまりました。
プロ野球選手としての道が閉ざされかけた中、次に選んだのがBCリーグの武蔵ヒートベアーズでした。
12球団合同トライアウトでは、3人の打者に対して2四球と1死球という厳しい結果に終わり、NPB球団からオファーは届きませんでした。
しかし、この後に人生を変える出来事が起こります。
テレビ番組がきっかけでダイヤモンドバックスと契約中後さんは、TBS系のドキュメンタリー番組『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』で取り上げられました。
その放送を見たメジャー関係者が投球に興味を持ち、スカウトによる視察につながります。複数球団が関心を示すなか、最終的にアリゾナ・ダイヤモンドバックスとマイナー契約を締結しました。
2016年3月1日に契約を結び、同年はルーキーリーグからスタート。A級を経て3Aまで昇格するという急成長を見せました。
2016年の3Aでは13試合に登板し、10回2/3を投げて無失点、13奪三振、防御率0.00を記録しています。
戦力外通告を受けた後のトライアウトで結果を残せなかった投手が、わずかな期間でメジャー昇格を視野に入れる位置まで到達したのです。
マイナーリーグ成績とメジャー昇格への壁米国での挑戦は、単なる海外移籍ではありませんでした。マイナーリーグは競争が激しく、成績が悪ければシーズン途中でも契約を解除される厳しい環境です。
中後さんは2017年に2Aと3Aで計50試合に登板し、1勝2敗、防御率2.53を記録しました。2016年に続き、メジャー昇格を期待される存在になっていきます。
一方、2018年は苦戦しました。ダイヤモンドバックス傘下2Aジャクソンで24試合に登板したものの、1勝1敗、防御率5.29。34イニングで36奪三振を記録した一方、16四球を与えています。
同年6月、球団からリリースされ、約2年半に及んだ米国挑戦は終了しました。
ただし、メジャーリーグの公式戦に登板したわけではありません。3Aまで昇格した実績と、メジャー昇格の可能性が報じられたことは事実ですが、メジャーデビューは果たしていません。
【引退理由を検証】中後悠平はなぜ3度の戦力外を経験したのか
中後悠平さんについて検索すると、「3度の戦力外」という言葉が目に入ります。
この数字は、2021年のITmediaビジネスオンラインのインタビュー記事のタイトルにも使われています。選手として所属先を失う経験を複数回重ね、そのたびに次の舞台を探してきたキャリアを象徴する表現です。
3度の戦力外を時系列で整理経歴を整理すると、ロッテ退団、ダイヤモンドバックス傘下からのリリース、DeNAでの選手契約終了という3つの大きな転換点があります。
ただし、米国マイナーリーグでのリリースは、日本のNPBにおける戦力外通告と制度上同じものではありません。「3度」という表現を理解するときは、それぞれの所属先と契約形態を分けて見る必要があります。
1度目:2015年、千葉ロッテマリーンズ
プロ入りから4年を過ごしたロッテを退団。2012年には一軍で27試合に登板したものの、その後は登板機会が減少し、2015年オフに戦力外通告を受けました。
2度目:2018年、ダイヤモンドバックス傘下
米国で2年半にわたって挑戦したものの、2018年6月に2Aジャクソンからリリースされました。2018年は防御率5.29と苦戦し、メジャー昇格を果たせないまま契約終了となりました。
3度目:2019年、横浜DeNAベイスターズ
2018年途中にNPBへ復帰した中後さんでしたが、2019年シーズン終了後、選手としての契約を終えることになります。その後、2019年11月25日に球団から現役引退が発表されました。
2019年の引退理由は何だったのか中後さんの引退理由について、球団の公式発表では、特定の病気や故障を直接の理由として挙げていません。
本人は引退発表時、野球を続けたい気持ちが残っていたことを率直に明かしながらも、全力を出し切ったという趣旨のコメントを発表しています。
「まだまだ野球をしたいという気持ちはありますが、全力で力を出し切りました」
出典:横浜DeNAベイスターズ「中後悠平選手 現役引退のお知らせ」2019年11月25日
2021年のITmediaのインタビューでは、当時、他球団から声が掛からなかったため、自分の状況を受け入れて選手生活に区切りをつけたと説明しています。
つまり、引退の背景には、選手としての契約を失ったことと、他球団で現役を続ける機会を得られなかったことがありました。
二軍で好成績を残しても引退に至った理由興味深いのは、2019年の中後さんが二軍では好成績を残していたことです。
プロ野球の一軍成績だけを見ると、2019年は4試合登板、2回2/3、防御率3.38でした。一方、二軍では44試合に登板し、5勝0敗4セーブ、防御率1.17という数字を記録しています。
この違いは、単純に投手としての能力がなくなったという説明では不十分であることを示しています。
一軍の登録枠やチーム編成、左のリリーフに求める役割、将来性など、プロ野球の契約は複数の要素で判断されます。二軍で結果を残していても、必ずしも一軍で継続的な出場機会が保証されるわけではありません。
中後さんの場合も、二軍での好成績と一軍での登板機会の少なさが並存したシーズンでした。引退は、単純な成績不振だけで説明できるものではありません。
【横浜DeNA復帰の記録】現役最後の2年間と通算成績
米国での挑戦が終わった後、中後さんに再びNPBでプレーする機会を与えたのが横浜DeNAベイスターズでした。
2018年7月にDeNAへ入団2018年7月4日、横浜DeNAベイスターズは中後さんの獲得を公式発表しました。ダイヤモンドバックス傘下のマイナーリーグを離れた後、日本に戻って入団テストを受け、選手契約を結ぶことになりました。
ロッテ時代の経験と米国で培った実績を持つ左腕として、貴重な中継ぎ候補になることが期待されました。
NPBへの復帰は、2015年のロッテ戦力外から約3年を経て実現した再起でした。
DeNA時代の印象的な登板DeNA時代の思い出として、中後さん自身が挙げたのが2018年8月28日の中日ドラゴンズ戦です。
ピンチの場面で登板し、無失点に抑えたことで試合後にはヒーローインタビューにも選ばれました。
2019年11月の引退発表で、本人はこの試合をDeNAでの一番の思い出として振り返っています。
短い在籍期間であっても、本人にとって強く印象に残る登板だったことがうかがえます。
NPB通算成績を確認日本野球機構の個人年度別成績によると、中後さんのNPB通算成績は次のとおりです。
- 一軍登板:49試合
- 通算勝利:2勝
- 通算敗戦:2敗
- 通算ホールド:7
- 投球回:35回1/3
- 奪三振:21
- 防御率:5.09
ロッテで37試合、DeNAで12試合に登板した記録です。プロ野球選手としての一軍実績は決して長いものではありませんが、独立リーグと米国マイナーリーグを含めた経歴には、一般的な国内移籍とは異なる特徴があります。
【引退後のセカンドキャリア】営業職で身につけた新しい実力
中後さんのセカンドキャリアで特に注目されるのは、野球の指導者ではなく営業職を選んだことです。
プロ野球選手から球団職員に転身するケースはありますが、選手生活を終えてすぐ営業部門に配属されるのは珍しいキャリアでした。
営業未経験からのスタートITmediaの2021年のインタビューでは、営業職に就いた当初、パソコンでの資料作成やタイピングなど、基本的なビジネススキルにも苦労したと振り返っています。
特に最初の2〜3カ月は、営業研修のロールプレイングに取り組み、電話でのアポイント獲得、企画書作成、社内調整、契約締結までの流れを学びました。
野球の練習とは異なる仕事の進め方に戸惑いながらも、20年間続けてきた野球で身につけた粘り強さを生かしていきました。
初受注は2020年11月ごろ営業職としての具体的な成果も報告されています。
2021年のインタビューによると、中後さんが初めて冠ゲームの受注を得たのは2020年11月ごろでした。上司のサポートを受けながら、メイン担当として顧客とのコミュニケーションを重ね、契約に結びつけたといいます。
加えて、その後は数千万円規模の案件も受注し、個人目標を達成したと紹介されています。
これは単に元プロ野球選手という知名度だけで営業をしていたのではなく、実際に顧客と向き合い、提案から契約までの仕事を積み重ねてきたことを示すエピソードです。
選手時代には見えなかった球団運営の仕事営業職への転身によって、中後さんは球団を支える仕事の幅広さにも気づいたといいます。
ITmediaの取材では、コロナ禍の無観客試合で、約3000人分のファンの応援パネルを社員全員で設置した経験が紹介されています。
雨の中でパネルを座席に取り付ける作業を通じ、選手としてプレーしていたときには意識していなかった球団職員の仕事や、スポンサー、ファンへの対応の大切さを実感したそうです。
選手はグラウンドで結果を出すことに集中します。しかし、試合が成立し、観客が楽しめる環境が整うまでには、多くの職員の仕事があります。
中後さんは選手と球団事業の両方を経験した立場から、双方をつなぐ役割を担いたいという考えも示していました。
指導者への道も視野に入れていた2021年のインタビューでは、将来的に指導者になる可能性にも触れています。学生野球資格回復制度の講習を受け、資格を取得したことも明かしていました。
ただし、当時の本人の考えは、まず営業職として仕事を続けることでした。
元選手としての経験を生かすだけでなく、営業職として成果を出すことで、後に続く選手たちのセカンドキャリアの選択肢を広げたいという思いも語っています。
2026年の報道で営業の第一線に立つ姿が紹介されたことは、引退後に選んだ道を継続していることを示す新しい情報です。
【プロの結論】中後悠平の経歴から分かるセカンドキャリアの可能性
中後悠平さんの野球人生を振り返ると、注目すべきなのは、単に戦力外から復活したという部分だけではありません。
日本のプロ野球、独立リーグ、米国マイナーリーグ、そして球団の営業職という複数の環境を経験し、その都度、自分の役割を変えてきた点にあります。
野球選手としての経験は営業にも生きる営業職と野球選手は、一見するとまったく異なる仕事です。
しかし、目標に向けて準備を重ねること、相手の反応を見て対応を変えること、失敗を振り返って改善すること、チームで成果を目指すことには共通点があります。
中後さんの場合、マイナーリーグでの厳しい競争や、複数回の契約終了を経験したことが、新しい仕事に向き合う際の精神的な土台になったと考えられます。
ITmediaのインタビューでも、営業研修の困難を乗り越えられた背景として、長年の野球経験で身につけた粘り強さを挙げていました。
「元プロ野球選手」という肩書だけではない価値もう一つ重要なのは、選手としての知名度だけに頼らず、営業職として実績を積み重ねたことです。
初受注や数千万円規模の案件は、本人の努力だけでなく、上司やチームメンバーの支援もあって実現したと語っています。
現役時代は個人の投球成績が評価の中心でしたが、営業職では顧客との信頼関係や社内連携など、異なる能力が大切です。
その環境に適応して成果を出したことは、プロスポーツ選手のセカンドキャリアを考えるうえで示唆に富んでいます。
中後悠平の経歴を調べる際に押さえたい3つのポイント- 戦力外の回数:ロッテ退団、米国マイナーでのリリース、DeNAでの選手契約終了という異なる出来事を混同しない。
- 米国での実績:3Aまで昇格したことは事実だが、メジャー公式戦への出場経験はない。
- 現在の仕事:2026年の取材記事で確認できるのは、DeNA球団職員としての営業活動。野球指導者や解説者への転身と混同しない。
この3点を押さえると、中後さんのキャリアを単なる戦力外選手の再起物語としてではなく、野球界で役割を変えながら働き続ける一人の社会人の歩みとして理解できます。
中後悠平の現在・経歴に関するよくある質問(FAQ)
Q1:中後悠平は2026年現在、何をしている?
A1:横浜DeNAベイスターズの球団職員として働いています。2026年8月25日付のデイリースポーツによると、野球未来創造本部 パートナー共創部 第1アカウントグループに所属し、営業の第一線で活動しています。
Q2:中後悠平はなぜ現役を引退した?
A2:2019年シーズン終了後、DeNAで選手としての契約を終えました。本人はまだ野球を続けたい気持ちがあったと語っていますが、他球団から声が掛からなかったこともあり、現役生活に区切りをつけました。
Q3:中後悠平の戦力外通告は本当に3度?
A3:ITmediaビジネスオンラインなどが「3度の戦力外」と紹介しています。ロッテ退団、ダイヤモンドバックス傘下からのリリース、DeNAでの選手契約終了が主な転換点です。ただし、米国のリリースは日本のNPBの戦力外通告と制度が異なります。
Q4:中後悠平はメジャーリーグに昇格した?
A4:メジャー昇格は実現していません。アリゾナ・ダイヤモンドバックス傘下でプレーし、2016年には3Aで防御率0.00を記録するなど好投しましたが、MLB公式戦への登板経験はありません。
Q5:中後悠平のプロ野球通算成績は?
A5:日本野球機構の公式記録では、NPB通算49試合登板、2勝2敗、7ホールド、防御率5.09です。ロッテと横浜DeNAの2球団でプレーしました。
中後悠平さんは、2011年のドラフト2位で千葉ロッテマリーンズに入団し、変則左腕として注目を集めました。その後、戦力外通告を受けて独立リーグへ進み、ダイヤモンドバックス傘下で3Aまで昇格。2018年には横浜DeNAベイスターズでNPB復帰を果たしました。
しかし、2019年シーズン限りで現役を引退。野球を続けたい気持ちを残しながらも、新たな道として選んだのが、DeNAの球団職員という仕事でした。
2026年8月の報道では、パートナー企業との関係づくりを担う営業職として活動する姿が紹介されています。営業未経験からスタートし、研修や顧客との交渉を経験して実績を積み重ねてきました。
中後さんのキャリアは、プロ野球選手として成功することだけが野球人生のゴールではないと教えてくれます。選手として培った経験を、球団を支える仕事へとつなげたことも、もう一つの挑戦です。
「千手観音投法」でファンを沸かせた左腕は、現在、グラウンドの外から横浜DeNAベイスターズを支えています。2019年の引退は野球との別れではなく、野球に携わる新しい人生の始まりだったのです。
主な取材・記録資料
- 横浜DeNAベイスターズ公式発表(2018年7月4日、2019年11月25日)
- 日本野球機構「個人年度別成績」
- デイリースポーツ、2026年8月25日付の現況取材
- ITmediaビジネスオンライン、2021年6月20日付インタビュー
- NIPPON EXPRESS「侍ジャパン」応援特設サイト、2022年5月9日付インタビュー
- Full-Count、2016~2018年の米国挑戦に関する取材記事