山本郁榮さんは、日本のレスリング界で選手、指導者、研究者という3つの立場から活動してきた人物です。
名前の読み方は「やまもと・いくえい」。資料によって「山本郁栄」と「山本郁榮」の2種類の表記がありますが、国立国会図書館の典拠データでも両方が確認できます。
基本プロフィール| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 山本郁榮(山本郁栄) |
| 読み方 | やまもと いくえい |
| 生年月日 | 1945年2月17日 |
| 年齢 | 81歳(2026年11月6日現在) |
| 出身地 | 愛知県 |
| 学歴 | 日本体育大学 |
| 主な競技 | レスリング |
| 専門階級 | グレコローマン57kg級 |
| 主な実績 | 全日本選手権3度優勝 |
| オリンピック | 1972年ミュンヘン大会日本代表 |
| 主な肩書 | 元レスリング選手・指導者・日本体育大学名誉教授 |
山本さんの経歴で興味深いのは、幼少期からレスリング一筋だったわけではないことです。
本人のプロフィールによると、日本体育大学に入学したことをきっかけにレスリングを始めました。その後、競技力を急速に高め、アメリカの東ミシガン大学への留学も経験しています。
留学では競技面だけでなく、後年のスポーツ医学研究につながるテーピング技術との出会いもありました。
日本体育大学への進学を起点に、競技者としての実績を築き、さらに海外で学んだ知識を日本のスポーツ現場に持ち帰った点は、山本さんのキャリアを理解するうえで欠かせません。
なお、高校など大学以前の詳しい学歴については、広く参照できる大学・競技団体の公式プロフィールで一貫した情報が確認できるわけではありません。人物紹介では、日本体育大学で学んだことと競技を始めた経緯が中心となっています。
2026年現在の活動と肩書2026年現在、山本さんは81歳です。
日本体育大学の名誉教授一覧にも名前が掲載されており、スポーツ医学の分野で長年活動してきた経歴が確認できます。
また、近年の活動を示す具体的な出来事として、2024年5月には神奈川県葉山町の中学生を対象に、自身が考案したテーピングスパッツを寄贈しました。
この寄贈では、町立中学校2校の生徒全員に2着ずつ、合計約1,700枚が届けられています。
現役時代の競技実績だけでなく、スポーツをする子どもたちの身体を守る活動にも関わっていたことが分かります。
【レスリング実績】ミュンヘンオリンピック7位と全日本選手権3度優勝の実力

山本郁榮さんの競技者としての代表的な実績は、1972年のミュンヘンオリンピック出場です。
出場したのは、男子グレコローマンレスリング57kg級。国際的な競技者が集まるオリンピックの舞台で、7位入賞を果たしました。
1972年ミュンヘン五輪で日本代表にミュンヘン大会は、山本さんの競技人生を象徴する大会です。
当時のグレコローマンスタイルは、上半身を中心に組み合い、相手を投げたり、コントロールしたりする技術が求められる競技でした。
フリースタイルとは異なり、下半身への攻撃や足を使った攻防に制限があります。そのため、上半身の力だけではなく、重心の移動、体幹、相手の動きを読む判断力が重要になります。
山本さんは57kg級の日本代表として出場し、7位という成績を残しました。オリンピックの記録を掲載するOlympediaでも、1972年大会の同階級7位が確認できます。
全日本選手権3度優勝と全米選手権優勝国内での実績も優れています。
山本さんは全日本選手権で3度優勝。加えて、アメリカの全米選手権でも優勝した経歴があります。
日本体育大学への入学後に競技を始めた選手が、国内トップレベルの大会を複数回制し、海外の大会でも結果を残したことは注目に値します。
特に、全日本選手権の歴代優勝記録では、1969年、1970年、1972年に男子グレコローマンの57kg級で山本さんの名前が確認できます。
現役引退後はオリンピックコーチへ山本さんのキャリアは、現役引退によって終わりませんでした。
競技者として培った技術や経験を、次世代の選手に伝える指導者の道へ進みます。
その後はレスリングクラブの運営やオリンピックコーチなどを歴任しました。
自ら世界の舞台で戦った経験があるからこそ、国内の大会で勝つことと、海外の強豪選手に勝つことの違いを理解していたと考えられます。
また、技術指導だけでなく身体のコンディショニングや故障予防にも関心を広げたことが、後年のスポーツ医学研究につながっていきました。
【人物関係・年表】山本美憂、KID徳郁、山本聖子との親子関係
山本郁榮さんの名前が格闘技ファン以外にも広く知られている理由の一つが、山本家の存在です。
長女の山本美憂さん、長男の山本“KID”徳郁さん、次女の山本聖子さんは、それぞれレスリングや総合格闘技の分野で活躍しました。
特に美憂さんと聖子さんは女子レスリングの世界王者として知られ、徳郁さんは総合格闘技界で大きな存在感を示しました。
山本家の人物相関関係| 人物 | 郁榮さんとの関係 | 主な経歴・実績 |
|---|---|---|
| 山本美憂 | 長女 | レスリング世界選手権優勝、MMA参戦 |
| 山本“KID”徳郁 | 長男 | 総合格闘家、HERO'S初代ミドル級王者 |
| 山本聖子 | 次女 | レスリング世界選手権4度優勝 |
| 山本アーセン | 孫 | レスリング経験者、MMAファイター |
1974年生まれ。13歳で全日本女子選手権を制し、1991年には17歳でレスリング世界選手権を優勝しました。父親の郁榮さんから直接指導を受けた経験を持ちます。
美憂さんは父親について、2026年9月公開のLEONのインタビューで、指導が厳しかったと振り返っています。
親子であるからこそ甘えが出て、練習中に叱られることもあったと語っています。
一方、父親から直接指導を受けられたことは、自身の上達につながったとも説明しています。
美憂さんの競技人生は、レスリングだけにとどまりません。2016年からは総合格闘技にも挑戦し、2023年にMMAを引退。その後、2026年にはプロボクシングにも挑戦しています。
父親から受け継いだレスリングの技術を土台に、異なる競技へ挑戦を続けている点も特徴です。
長男・山本“KID”徳郁は格闘技界の象徴的存在1977年生まれ。レスリングをバックボーンに持ち、総合格闘技へ転向。HERO'Sの初代ミドル級王者として活躍しました。
徳郁さんは、スピード感のある打撃と攻撃的なファイトスタイルで人気を集めました。
父親の郁榮さんは、競技者としての指導だけでなく、徳郁さんの成長を見守った人物でもあります。
2006年には、父親の立場から息子の半生をつづった著書『神の子 父が語る山本“KID”徳郁の半生』を出版しています。
親子であり、レスリングの師弟でもあった関係性がうかがえる一冊です。
しかし、徳郁さんは2018年9月18日に逝去しました。享年41歳6か月でした。
RIZIN公式サイトも訃報を発表しており、格闘技界に大きな影響を残した選手として追悼しています。
次女・山本聖子はレスリング世界選手権4度優勝1980年生まれ。女子レスリングの世界選手権で4度優勝した実力者です。現在はダルビッシュ有さんの妻としても知られています。
聖子さんも父親からレスリングの指導を受けて育ちました。
郁榮さんのインタビューでは、練習中に良い動きをした際、すぐに褒めるようにしていたことが紹介されています。
聖子さんが練習後の車内でも、父親に「どこが良かったの?」と尋ねていたエピソードは、親子間の指導コミュニケーションを示すものです。
孫・山本アーセンにも受け継がれる競技の系譜1996年生まれ。母親は美憂さん。祖父が郁榮さん、叔父がKID徳郁さん、叔母が聖子さんという格闘技一家に生まれました。
アーセンさんは幼少期からレスリングに取り組み、13歳でハンガリーへ留学した経験もあります。
その後、2015年に総合格闘技のRIZINでプロデビューしました。
2025年5月4日のRIZIN男祭りでは、冨澤大智選手を相手に2ラウンドで一本勝ちを収めています。
祖父から娘、息子、孫へと続く競技のつながりは、山本家の特徴的な歴史です。
ただし、家族全員が同じ競技や同じ進路を選んだわけではありません。それぞれが自分の競技人生を築いてきたことも押さえておきたい点です。
【指導方針】山本郁榮の英才教育はなぜ優秀な選手を育てたのか
山本家の強さを考えるとき、単純に遺伝的な運動能力だけで説明することはできません。
郁榮さんが実践してきた教育には、子どもの個性を見つけ、成功体験を積み重ね、自主性を育てるという考え方がありました。
1. 褒めることで挑戦する意欲を引き出すスクスクのっぽくんのインタビューで、郁榮さんは自身の子育てについて具体的に語っています。
その中で特徴的なのが、子どもが良い動きをしたとき、その場ですぐに褒めるという方法です。
単に「すごいね」と言うのではなく、何が良かったのかを具体的に伝え、子ども自身が成功を理解できるようにしていました。
郁榮さんは次のように説明しています。
自分が怒られて理解するより、褒められたときのほうが“よし、わかった”と前向きに思えたから、それを実践しただけです。
ここで注目したいのは、褒めることを甘やかすことと区別していた点です。
同インタビューでは、礼儀や約束、言葉遣いなど、人として守るべきことについては厳しく指導していたとも話しています。
つまり、技術面では成功体験を重視し、生活面では基本的な規律を求めるという考え方です。
2. レスリングだけに限定せず、さまざまな経験をさせる郁榮さんの教育方針は、最初から子どもの将来をレスリングだけに決めるものではありませんでした。
インタビューでは、レスリングでも勉強でも、ピアノでも絵でも、さまざまなことを経験させる考え方を示しています。
その中から本人の得意なことや個性を見つけ、伸ばしていくことが親の役目だという考えです。
これは、競技を強制する英才教育とは少し異なります。
競技に必要な基礎を教えながら、本人の反応や適性を観察する。そうした指導の積み重ねが、山本家の子どもたちの個性を伸ばす一因になったと考えられます。
3. 15歳を一つの自立の節目として考える郁榮さんの教育観では、子どもが自分の進む道を決めることも重視されています。
スクスクのっぽくんの別のインタビューでは、子どもたちに将来の選択を任せる考え方について紹介されています。
その根底には、競技者としての成功だけではなく、どの分野に進んでも世界を目指せる人間になってほしいという願いがありました。
この考え方は、子どもが親の実績をそのまま引き継ぐのではなく、自分自身の目標を持つことにつながります。
山本家の教育方針を整理すると| 指導の柱 | 実践内容 | 期待される効果 |
|---|---|---|
| 肯定的な評価 | 良い動きをその場で褒める | 自信と意欲を育てる |
| 多様な経験 | スポーツや勉強などに挑戦させる | 個性や適性を発見する |
| 基本的な規律 | 礼儀や約束を守らせる | 自立心と責任感を育てる |
| 自主性 | 将来の道を本人に選ばせる | 主体的な目標設定につなげる |
この教育方針の特徴は、親が子どもの人生をすべて決めるのではなく、挑戦できる環境を整えることにあります。
山本家の実績をそのまま再現できるわけではありませんが、子どもの適性を見極めることや、成功した行動を具体的に評価することは、スポーツ指導全般にも応用できる考え方です。
【スポーツ医学】テーピング研究と日本体育大学での功績
山本郁榮さんを語るうえで、レスリングの競技実績と並んで重要なのがスポーツ医学への取り組みです。
山本さんは、アメリカ留学中にテーピング技術に触れたことをきっかけに、日本での研究や普及に取り組みました。
アメリカ留学で出会ったテーピング技術2024年の葉山町での寄贈に関する報道によると、山本さんは大学時代に東ミシガン大学へ留学していた際、負傷した状態でレスリングの試合に臨み、トレーナーからテーピングを受けた経験がありました。
その経験から、テーピングの有用性に関心を持つようになったとされています。
帰国後は技術の研究や普及に取り組み、日本のスポーツ現場にテーピングの考え方を広めていきました。
テーピングは、身体の関節や筋肉を適切にサポートするための技術です。
スポーツの現場では、次のような目的で利用されます。
- 関節の過度な動きを制限する。
- 負傷部位への負担を調整する。
- 再発や二次的な負傷を防ぐ補助をする。
- 競技中の身体の安定性をサポートする。
山本さんの取り組みは、選手が強くなるためには技術や筋力だけでなく、身体を守る知識も必要だという考え方を反映しています。
日本体育大学での研究活動山本さんは日本体育大学のスポーツ医学研究室で教授を務め、研究にも取り組みました。
その具体例として、1985年発行の日本体育大学紀要には、山本郁栄さんらによるテーピングに関する研究論文が掲載されています。
論文のテーマは「長期間テーピング状態でのトレーニングによる身体への影響」です。
この研究では、大学の運動部に所属する20人を対象に、足関節または膝関節にテーピングを施し、2か月間のトレーニングによる身体への影響を調査しました。
ここで重要なのは、研究結果を正しく理解することです。
論文では、テーピングによって身体能力が必ず向上するという結論にはなっていません。確認された一部の運動能力の向上についても、テーピングそのものではなくトレーニングの効果と考えられるとしています。
つまり、テーピングは万能の能力向上手段ではなく、身体をサポートする技術として適切に評価する必要があるのです。
テーピングスパッツの開発と2024年の寄贈山本さんの研究は、一般的なテーピング技術だけにとどまりません。
長年の研究をもとに、テーピング理論を取り入れた「運動が楽しくなる!テーピングスパッツ」を考案しました。
2024年5月8日には、葉山町立南郷中学校で寄贈式が行われ、町内の中学生に製品が届けられました。
葉山町の公式発表でも、長年のスポーツ医学研究から生まれた製品として紹介されています。
この出来事は、山本さんのスポーツ医学への取り組みが、大学内の研究にとどまらず、地域の子どもたちのスポーツ環境にもつながっていることを示しています。
また、競技者として培った経験を、次世代の安全なスポーツ活動に生かそうとする姿勢も読み取れます。
【真相検証】山本郁榮について間違えやすい5つのポイント
山本郁榮さんについて検索すると、家族関係や競技実績、現在の肩書など、似た情報が混在することがあります。
特に押さえておきたいポイントを整理します。
1. 名前の読み方は「いくえい」「郁榮」という漢字は読み方が難しいものの、国立国会図書館の典拠データでは「ヤマモト、イクエイ」と登録されています。
「いくえい」が正しい読み方です。
2. ミュンヘン五輪では金メダルではなく7位山本さんは1972年ミュンヘンオリンピックのグレコローマン57kg級で7位でした。
オリンピック日本代表という実績と、メダル獲得という実績は区別する必要があります。
3. 山本KID徳郁の父親である山本さんは山本“KID”徳郁さんの父親です。
また、山本美憂さんと山本聖子さんの父親でもあります。KIDさんは美憂さんの弟、聖子さんの兄にあたります。
4. 山本アーセンは息子ではなく孫山本アーセンさんは山本美憂さんの息子であり、郁榮さんの孫です。
アーセンさんの家族関係を紹介する記事では、祖父が郁榮さん、母親が美憂さんと説明されています。
5. 名誉教授と現役教授は異なる山本さんは日本体育大学の名誉教授として知られています。
現役で大学の授業や研究室運営を担当する教授という意味ではなく、長年の教育・研究活動を経た名誉教授という肩書です。
山本郁榮を評価するときの判断基準山本さんの功績を調べる場合は、次の3つを分けて考えると理解しやすくなります。
- 競技者としての評価: オリンピック7位、全日本選手権3度優勝という実績。
- 指導者としての評価: オリンピックコーチやレスリングクラブでの育成活動。
- 研究者としての評価: テーピング技術の研究、スポーツ医学の普及、地域への貢献。
この3つを総合することで、単なる有名選手の父親ではなく、本人自身が日本のレスリングとスポーツ医学に関わってきた人物であることが見えてきます。
【よくある質問】山本郁榮に関するFAQ
Q1:山本郁榮の現在の年齢は何歳ですか?
A1:1945年2月17日生まれで、2026年11月6日現在81歳です。
Q2:山本郁榮はミュンヘンオリンピックで何位でしたか?
A2:1972年大会の男子グレコローマン57kg級で7位に入賞しました。
Q3:山本郁榮の全日本選手権の優勝回数は?
A3:全日本選手権で3度優勝しています。また、全米選手権でも優勝した経歴があります。
Q4:山本郁榮の出身大学はどこですか?
A4:日本体育大学です。大学入学後にレスリングを始め、競技者として成長しました。
Q5:山本郁榮と山本美憂、山本KID徳郁、山本聖子の関係は?
A5:3人は郁榮さんの子どもです。美憂さんが長女、徳郁さんが長男、聖子さんが次女にあたります。
Q6:山本アーセンは山本郁榮の孫ですか?
A6:はい。アーセンさんは山本美憂さんの息子であり、郁榮さんの孫です。
Q7:山本郁榮は現在も日本体育大学の教授ですか?
A7:現在の肩書は日本体育大学名誉教授です。現役教授と名誉教授は異なる立場です。
Q8:山本郁榮が広めたテーピング技術とは何ですか?
A8:アメリカ留学中に学んだ技術を日本に持ち帰り、研究・普及に取り組んだものです。関節や筋肉をサポートし、スポーツ中の負傷予防などに役立てる技術です。
山本郁榮さんは、1972年ミュンヘンオリンピックのレスリング日本代表として7位に入賞し、全日本選手権でも3度優勝した元トップアスリートです。
しかし、その経歴を振り返ると、競技者としての実績だけでは評価しきれない人物であることが分かります。
特に注目すべきなのは、次の3つの功績です。
第一に、レスリングの指導者としての功績。
オリンピックコーチなどを歴任し、競技者として培った技術や経験を後進に伝えてきました。
第二に、スポーツ医学への貢献。
アメリカ留学で出会ったテーピング技術を日本に持ち帰り、研究や普及に取り組みました。2024年にはテーピングスパッツを葉山町の中学生に寄贈するなど、地域のスポーツ活動にも関わっています。
第三に、次世代を育てる教育哲学。
山本美憂さん、山本“KID”徳郁さん、山本聖子さんを育てた背景には、単に厳しい練習を課すだけではない指導方針がありました。子どもの良い部分を見つけて褒め、幅広い経験をさせ、自分の進路を選べるようにする考え方です。
2026年現在81歳となった山本さんの歩みは、アスリートの価値が現役時代の勝敗だけで決まるものではないことを示しています。
競技で結果を残すこと、後進を育てること、スポーツ科学を次の世代に伝えること。
この3つを長年にわたって積み重ねてきたことこそ、山本郁榮さんが日本のレスリング界に残した大きな功績です。
山本家の華やかな競技実績の背景には、選手としての経験を教育と研究に結びつけた、一人の指導者の長い歩みがありました。