1920年(大正9年)、ロシア極東のニコラエフスクで、日本軍守備隊と在留邦人が革命派のパルチザン部隊との武力衝突に巻き込まれ、多数の日本人が殺害される事件が起きました。これが「尼港事件(にこうじけん)」です。ニコラエフスク事件とも呼ばれ、日本の近代外交史、シベリア出兵、日露・日ソ関係を考えるうえで重要な出来事として記録されています。
事件は単なる軍事衝突にとどまりませんでした。日本政府による北樺太(北サハリン)の保障占領、ロシア革命後の外交交渉、そして1925年(大正14年)の日ソ基本条約締結と日本軍の撤兵にまで影響を及ぼします。日本側の外交記録、ロシア側の革命期資料、歴史研究を照らし合わせながら、事件の原因、経緯、犠牲者、真相、そして歴史的影響を整理します。
【事件の全体像】尼港事件とは?発生場所とシベリア出兵の関係

尼港事件の舞台となったニコラエフスク(現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)は、ロシア極東のハバロフスク地方に位置する都市です。アムール川河口に近く、オホーツク海に面する交通・軍事・行政上の重要拠点でした。
当時の日本では、この都市の名称を略して「尼港」と呼んでいました。そのため、同地で発生した一連の衝突と殺害事件が尼港事件という名称で知られるようになりました。
事件が起きたのは、ロシア革命後の内戦が続いていた1920年です。ロシア帝政の崩壊によって極東地域の政治秩序は大きく揺らぎ、ボリシェヴィキ(ロシアの革命派)、反革命勢力、地域の武装集団などが各地で対立していました。
日本は第一次世界大戦末期の1918年から、連合国の一員としてシベリア出兵を実施していました。公式にはチェコスロバキア軍団の救援や地域の安定確保などが目的でしたが、ロシア革命への干渉、極東における日本の影響力拡大という側面も持っていました。
尼港には日本軍守備隊のほか、領事館関係者や商業活動に従事する日本人居留民が生活していました。つまり、事件で被害を受けたのは戦闘に参加した兵士だけではなく、現地で暮らしていた一般市民も含まれていたのです。
シベリア出兵が生んだ緊張関係尼港事件を理解するには、日本軍の駐留が現地社会に与えていた影響を押さえる必要があります。
第一次世界大戦後、連合国の多くはシベリアから撤兵を進めました。アメリカも1920年初めから撤兵を開始しましたが、日本軍は引き続き極東地域に駐留していました。
ロシア革命を支持する住民や現地の革命勢力にとって、日本軍の存在は外国による軍事干渉を象徴するものでした。駐留が長引くにつれて反日感情が強まり、日本人居留民の安全も不安定になっていきます。
こうした状況のなかで、革命派の武装集団と日本軍の対立が深刻化しました。尼港事件は、ロシア内戦と日本の軍事介入が交差する地域で発生した事件だったのです。
【尼港事件の原因】トリャピーツィンとパルチザンはなぜ日本軍と衝突したのか
トリャピーツィン率いる革命派部隊の進出事件の中心人物として知られるのが、ヤコフ・トリャピーツィン(Яков Тряпицын)です。
彼はアナキスト・マキシマリスト系の思想を持つ革命派の軍事指導者で、アムール川下流域を中心に活動するパルチザン部隊を率いていました。
パルチザンとは、正規軍とは異なる形態で活動する武装勢力を指します。ロシア内戦期の極東では、革命派や反革命派など、さまざまな政治勢力が独自の部隊を組織していました。
トリャピーツィンの部隊は1920年2月、ニコラエフスクへ進出します。山川出版社の『山川日本史小辞典』などでは、約4000人規模のパルチザン部隊が進出し、日本軍守備隊がいったん降伏した経緯が説明されています。
一方、北海道大学の研究者シュラトフ・ヤロスラブによるロシア革命期の研究では、日本軍守備隊とパルチザン側が中立協定を結んだ後、2月29日に部隊が入市したと説明されています。進入の日時や当時の取り決めについては、史料によって記述に違いがあります。
対立の根本には日本軍の駐留問題があった尼港事件の原因を、単純に日本人とロシア人の民族対立として理解するのは正確ではありません。
背景には、ロシア革命後の権力闘争と、日本のシベリア出兵による軍事的緊張がありました。
日本側は在留邦人の安全確保や地域の安定を主張していました。一方、現地の革命勢力には、日本軍の駐留そのものをロシアの主権に対する侵害と受け止める立場がありました。
さらに注目すべきなのは、事件発生前から北サハリンをめぐる対立が存在していた点です。
シュラトフの研究によると、日本軍は1920年3月初め、北サハリンに軍艦を派遣しました。しかし、流氷の影響で上陸を断念しています。これに対し、現地の革命当局は石炭や石油などの資源をめぐる日本の動きを警戒し、3月9日にはソビエト政府が日本などに抗議しました。
つまり、日本と革命勢力の緊張は尼港事件によって突然生まれたわけではありません。北サハリンの資源、ロシア極東の政治的支配、日本軍の駐留という複数の問題が、すでに衝突の土台を形成していました。
1920年3月12日の戦闘をめぐる日露双方の主張事件の重要な転換点は、1920年3月12日深夜から15日にかけて発生した日本軍とパルチザンの戦闘です。
日本側の記録や日本史の概説では、パルチザン側との緊張が高まるなか、日本軍守備隊が奇襲的な反撃を試みたものの、敗北したと整理されています。
これに対し、ソビエト側の1920年3月22日付の声明では、日本軍部隊が赤軍司令部との協定に反して先に攻撃を開始したと説明されています。同時に、事件への遺憾の意も表明されました。
このように、戦闘開始の責任をめぐって両者の説明には大きな違いがあります。現地の政治的対立、武装勢力間の不信、協定の解釈などが複雑に絡んでいたためです。
北海道大学の井澗裕による研究も、事件当事者の多くが死亡し、双方の証言や一次資料が十分に残されていないため、事件の実態を完全に復元することには限界があると指摘しています。
【尼港事件の経緯】1920年2月から5月までの時系列を整理
尼港事件は、3月の戦闘だけで終わったわけではありません。守備隊の敗北、捕虜の拘束、救援活動、市街地の破壊、そして日本政府の外交・軍事対応へと連鎖していきました。
事件発生から捕虜殺害までの流れ| 時期 | 主な出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1918年8月 | 日本がシベリア出兵を本格化 | ロシア極東への軍事介入が続く |
| 1920年2月 | トリャピーツィン率いるパルチザン部隊がニコラエフスクに進出 | 日本軍との緊張が高まる |
| 1920年3月12~15日 | 日本軍守備隊とパルチザンが武力衝突 | 日本軍が大きな損害を受け、住民や将兵が拘束される |
| 1920年3月下旬 | ソビエト側が事件への遺憾を表明 | 日ソ間の外交問題へ発展 |
| 1920年5月25日前後 | 拘束されていた日本人捕虜らが殺害される | 事件の被害がさらに拡大 |
| 1920年5月下旬~6月初め | パルチザン側が撤退し、市街地や軍事施設を破壊・焼失させる | ニコラエフスクの都市機能が壊滅的な被害を受ける |
| 1920年7月3日 | 日本政府が北樺太の保障占領方針を公表 | 事件が日本の対ソ政策に直接影響する |
| 1922年 | 日本軍がシベリア本土から撤兵 | 北樺太の占領は継続 |
| 1925年1月20日 | 日ソ基本条約に調印 | 日ソ間の国交樹立と北樺太撤兵への道が開かれる |
| 1925年5月15日 | 北樺太からの日本軍撤退期限 | 保障占領が終了する |
3月12日から15日にかけての戦闘で、日本軍守備隊は壊滅的な打撃を受けました。日本人居留民や領事館関係者も巻き込まれ、多数の人々が拘束されました。
山川出版社の解説では、敗北した日本軍将兵と居留民のうち130人余りが投獄されたとされています。日本側は救援部隊の派遣を進めましたが、現地の交通事情や厳しい自然環境が救援活動を困難にしました。
当時のニコラエフスク周辺は、冬季の結氷や流氷によって船舶の航行が制限される地域でした。通信も途絶しやすく、現地の状況を外部から正確に把握することは容易ではありませんでした。
捕虜殺害と市街地の破壊事件がさらに深刻化したのは5月下旬です。
日本軍の救援が迫るなか、トリャピーツィンの部隊は拘束していた日本人捕虜らを殺害しました。山川出版社の解説では、5月25日に捕虜が殺害されたと整理されています。
その後、パルチザン側は日本軍に軍事拠点として利用されることを避けるため、ニコラエフスクから撤退する過程で市街地や施設を破壊・焼却しました。ロシア側の地域史料にも、5月末から6月初めにかけて都市の建物や軍事施設が破壊された記録が残されています。
この結果、ニコラエフスクは都市としての機能を失い、多くの住民が避難や移動を余儀なくされました。被害は日本人だけに限られず、ロシア人住民を含む現地社会にも及びました。
なお、トリャピーツィンは事件後もそのまま指導者の地位にとどまったわけではありません。1920年7月9日、現地の人民裁判所で死刑判決を受け、処刑されたことがロシア側の裁判記録に残されています。
【尼港事件の犠牲者】約700人という数字の意味と日露双方の記録
日本政府が発表した約700人の被害尼港事件の犠牲者数について、最も広く知られているのが日本政府による約700人という数字です。
1920年7月3日付で日本政府がアメリカ政府に伝えた外交覚書では、同年3月12日から5月末までの間に、ニコラエフスクにいた日本人約700人が殺害されたと説明されています。
この数字には、日本軍守備隊の将兵だけではなく、領事館関係者や一般の在留邦人も含まれます。男女や年齢を問わず被害を受けたというのが、当時の日本政府による説明でした。
一方、1920年4月25日にアメリカ駐日大使が本国へ送った報告では、日本人守備隊が壊滅し、領事を含む数百人の日本人居留民が殺害されたとの情報が伝えられていました。しかし、この段階では通信が途絶していたため、事件の詳細はまだ確定できていませんでした。
つまり、約700人という数字は事件直後の日本政府が公表した重要な推計値ですが、すべての被害者を個別に確認した確定的な統計と同じ意味ではありません。
日本側とロシア側で異なる事件の描かれ方尼港事件の理解を難しくしているのが、日露双方の記録における視点の違いです。
日本側の外交記録では、日本軍守備隊と日本人居留民の殺害が中心的な問題として扱われ、事件は国家の威信と在留邦人保護に関わる重大事件として位置づけられました。
一方、ロシア側の革命期資料では、現地のパルチザンと日本軍の軍事的衝突が強調され、日本軍が先に攻撃したとする説明も残っています。また、トリャピーツィンの部隊による捕虜殺害や市街地破壊についても、現地の記録や研究によって検討されています。
両者の主張を比較すると、次のように整理できます。
| 検証項目 | 日本側の記録・説明 | ロシア側の記録・説明 |
|---|---|---|
| 戦闘の原因 | パルチザンとの対立と日本人保護の問題を重視 | 日本軍の駐留と中立協定をめぐる対立を重視 |
| 戦闘開始 | 革命派による脅威や襲撃を強調 | 日本軍が先に攻撃したとする声明が存在 |
| 日本人の被害 | 約700人が殺害されたとの政府推計を公表 | 日本軍将兵や居留民の犠牲を含む衝突の経緯を記録 |
| 捕虜の処遇 | 拘束された日本人捕虜の殺害を重大な犯罪として扱う | トリャピーツィン部隊による捕虜殺害を含む記録が残る |
| 都市の破壊 | 撤退時の市街地焼却と住民への被害を重視 | 日本軍への拠点利用を防ぐ撤退時の破壊として説明される資料がある |
ここで注意したいのは、戦闘開始の責任をめぐる主張の違いと、捕虜殺害や市街地破壊の事実を混同しないことです。
日本軍が先に攻撃したというロシア側の主張があるからといって、その後の捕虜殺害が正当化されるわけではありません。同様に、日本人が多数犠牲になった事実だけで、シベリア出兵全体における日本の軍事行動を評価することもできません。
事件の真相を調べるうえで重要な一次資料事件を研究する際に重要なのが、国立公文書館のデジタルアーカイブに保存されている1920年4月27日付の『東京朝日新聞』関連記事と現地派遣隊の報告資料です。
また、北海道立文書館には「尼港事件記録」という資料群が所蔵されています。大正10年(1921年)6月11日付の市街戦跡に関する説明や、1920年7月13日に目撃者の話と著者の観察をもとにまとめられた記事の翻訳が含まれています。
こうした資料は、後世に作られた概説だけでは見えにくい現地の状況を考える手掛かりになります。
北海道大学の研究論文では、事件当時の当事者の多くが死亡し、日露双方の一次資料が不足していることが指摘されています。したがって、現在の研究でも、すべての経緯を一つの確定した物語として説明できるわけではありません。
【北樺太保障占領】尼港事件から日ソ基本条約・1925年撤兵まで
日本政府が北樺太を占領した理由尼港事件は、日本の対ロシア政策を大きく変化させました。
1920年7月3日、日本政府はアメリカ政府に対して外交覚書を提出し、尼港事件の解決と日本人の安全確保を理由に、サハリン地域の必要と認める地点を占領する方針を明らかにしました。
これが北樺太保障占領の外交的な根拠となります。
保障占領とは、賠償や安全確保などの目的で相手側の地域を一時的に軍事占領する措置を指します。日本政府は、ロシアに正当な政府が成立し、尼港事件が満足できる形で解決するまで占領を続けるという立場を示しました。
ただし、北樺太への関心は事件後に初めて生まれたものではありません。石炭や石油などの資源が豊富な北サハリンは、事件前から日本とロシア双方にとって重要な地域でした。
北海道大学の研究では、事件以前の日本軍による北サハリンへの艦船派遣や、現地革命当局の抗議も確認されています。尼港事件は、既存の資源・安全保障問題に新たな政治的根拠を与えたのです。
シベリア本土から撤兵しても北樺太占領は続いた日本は1922年にシベリア本土からの撤兵を完了しました。しかし、北樺太については尼港事件の未解決を理由として占領を継続しました。
青森県史の資料によれば、北樺太では1個旅団による保障占領が維持され、1925年まで日本軍が駐留しました。
この期間、北樺太には日本人の商工業者なども進出しました。国立国会図書館に収録されている北樺太保障占領に関する研究では、移住者の多くが商工業者であり、資源開発や事業機会を期待していたことが説明されています。
しかし、交通インフラの未整備や商業上の制約などによって、現地での経営は必ずしも順調ではありませんでした。北樺太の占領は軍事的な安全保障だけではなく、資源開発や日本人居留民の経済活動とも結びついていました。
1925年の日ソ基本条約で外交関係が正常化北樺太占領を終わらせる大きな転換点となったのが、1925年1月20日に北京で調印された日ソ基本条約です。
当時の日本とソビエト連邦は、ロシア革命以降、正式な外交関係を確立していませんでした。しかし、ソビエト政権が極東地域での支配を固めるにつれて、日本も外交交渉を進める必要性に迫られます。
交渉では、北樺太からの撤兵だけでなく、石油・石炭の利権、漁業協約、旧ロシア帝国との条約の扱い、尼港事件に関する問題など、多くの懸案が議論されました。
外務省の外交史料館資料によれば、幣原喜重郎外相のもとで交渉が進められ、1924年5月以降、正式会議は61回に及びました。
日ソ基本条約は1925年2月25日に批准され、両国の外交・領事関係の確立につながりました。
条約に付属する議定書では、日本軍が北樺太から1925年5月15日までに完全撤退することが定められています。一方、ソ連側は日本に対して北樺太の石油・石炭開発に関する利権を認める方向で合意しました。
つまり、1925年の撤兵は、単純に日本が占領を放棄したというだけではありません。外交関係の正常化、資源開発、漁業、地域の安全保障などを含む包括的な政治交渉の結果だったのです。
【プロの結論】尼港事件の真相から読み解く日本の近代外交と軍事介入
尼港事件は単独の虐殺事件としてだけでは理解できない尼港事件を歴史的に評価する際、最も大切なのは、事件そのものと、その後の日本の政策を分けて考えることです。
日本軍守備隊や在留邦人が多数殺害されたこと、捕虜が殺害されたこと、市街地が破壊されたことは、事件を構成する重大な事実です。犠牲者の存在を軽視することはできません。
しかし、その悲劇を理解するには、ロシア革命後の内戦、日本のシベリア出兵、現地の反日感情、パルチザンの政治的立場などを同時に考える必要があります。
加えて、事件後の北樺太保障占領には、在留邦人保護だけでは説明しきれない外交・経済上の要素がありました。北サハリンの石油や石炭は、日本にとって重要な戦略資源だったからです。
「事件が起きたから北樺太を占領した」という説明だけでは不十分一般的な歴史の説明では、尼港事件への報復措置として日本が北樺太を占領した、という流れで整理されることがあります。
これは大筋では正しいものの、事件以前から日本軍が北サハリンへの進出を検討し、現地の資源に関心を持っていた事実を加えると、より立体的に理解できます。
事件は日本の保障占領を正当化する重要な外交的根拠となりました。しかし、その背景には、ロシア革命後の権力空白をめぐる国際政治と、北サハリンの資源をめぐる国家間の利害が存在していました。
また、アメリカ政府は日本による非ロシア当局の支配下でのサハリン占領を承認しない立場を示しており、保障占領は国際的にも無条件に認められた政策ではありませんでした。
2026年に尼港事件を学ぶ際の3つの判断基準現在、尼港事件について調べる場合は、次の3点を意識すると、資料の内容をより正確に理解できます。
第一に、犠牲者数と被害の範囲を区別すること。約700人という数字は日本政府による当時の推計です。日本人軍人・民間人の犠牲と、ロシア人住民を含む都市全体の被害は、それぞれ別の観点から確認する必要があります。
第二に、戦闘開始の責任と捕虜殺害の責任を混同しないこと。日本側とロシア側の記録では、戦闘の発端について異なる説明があります。しかし、その違いによって拘束された人々の殺害という重大な被害が消えるわけではありません。
第三に、1920年の事件と1925年の条約を一続きの外交史として見ること。尼港事件は北樺太保障占領につながりましたが、最終的な撤兵は日ソ間の外交関係正常化と資源利権を含む交渉によって実現しました。
こうした視点を持つことで、尼港事件は単なる軍事的悲劇ではなく、革命と内戦、国際介入、外交交渉が交差した近代東アジア史の重要な転換点として理解できます。
【尼港事件】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:尼港事件はいつ、どこで起きた事件ですか?
A1:1920年(大正9年)3月から5月にかけて、ロシア極東のニコラエフスク(尼港)で発生した事件です。日本軍守備隊とトリャピーツィン率いるパルチザン部隊の武力衝突を発端として、日本人軍人や在留邦人などに多数の犠牲者が出ました。
Q2:尼港事件の犠牲者は何人ですか?
A2:日本政府は1920年7月の外交覚書で、日本人約700人が殺害されたと説明しています。ただし、これは当時の政府による推計であり、すべての犠牲者を個別に確定した統計とは異なります。ロシア人住民を含む現地社会にも甚大な被害が及びました。
Q3:尼港事件とニコラエフスク事件は同じですか?
A3:基本的に同じ事件を指します。日本では都市名の略称である「尼港」を使って尼港事件と呼び、ロシアや国際的な歴史研究ではニコラエフスク事件、ニコラエフスク・ナ・アムーレ事件などの名称が使われます。
Q4:トリャピーツィンは事件後どうなりましたか?
A4:トリャピーツィンは1920年7月9日、現地の人民裁判所で死刑判決を受け、処刑されたとする記録が残っています。事件後も長く権力を維持したわけではありません。
Q5:なぜ日本は北樺太を占領したのですか?
A5:日本政府は尼港事件の解決と日本人の安全確保を理由に保障占領を実施しました。ただし、北樺太には石油や石炭などの資源があり、事件以前から日本の戦略的関心が存在していました。安全保障と経済的利益の双方が背景にありました。
Q6:日本軍が北樺太から撤退したのはいつですか?
A6:1925年の日ソ基本条約に基づき、同年5月15日までに完全撤退することが定められました。これにより、1920年に始まった北樺太保障占領は終結しました。
尼港事件は、1920年のシベリア出兵中にニコラエフスクで発生した、日本軍守備隊とパルチザン部隊の武力衝突、そして日本人捕虜や在留邦人らの殺害を含む重大事件です。
日本政府が発表した約700人という犠牲者数は、事件の深刻さを示す重要な記録です。一方、ロシア側の革命期資料には戦闘開始の経緯について異なる説明があり、事件の全体像を把握するには双方の記録を比較する必要があります。
事件後、日本は北樺太の保障占領を実施しました。シベリア本土から撤兵した1922年以降も占領は続きましたが、1925年1月20日の日ソ基本条約調印によって外交関係が正常化し、同年5月15日までの撤兵が実現しました。
尼港事件が残した歴史的教訓は、軍事介入が現地社会の政治的対立を激化させ、ひとつの悲劇がさらに大きな国際問題へ発展する可能性を示していることです。犠牲者の記憶を大切にしながら、日本側とロシア側の史料を比較し、事件の背景とその後の外交的帰結を一体として考えることが、2026年の現在にも求められています。
主な参照史料・研究資料
- 北海道大学『境界研究』掲載論文、井澗裕「アジテーター市川與一郎と『物語』としての尼港事件」
- 北海道大学『スラヴ研究』掲載論文、シュラトフ・ヤロスラブ「ロシア革命とサハリン」
- 国立公文書館・外交史料館の1920年関係文書、1925年の日ソ基本条約関係資料
- 米国国務省『Foreign Relations of the United States, 1920』
- 青森県史資料編近現代3、北海道立文書館所蔵「尼港事件記録」