ホーム 芸能ニュース・ゴシップ 松井秀喜の5打席連続敬遠と帰れコールの真相|1992年甲子園騒動を2026年に再検証

松井秀喜の5打席連続敬遠と帰れコールの真相|1992年甲子園騒動を2026年に再検証

伊部 拓海 伊部 拓海 • 更新: • 公開: • 読了約 20 分
目次

1992年8月16日、阪神甲子園球場で行われた第74回全国高校野球選手権大会2回戦。星稜高校(石川)の4番・松井秀喜に対し、明徳義塾高校(高知)は5打席すべてで敬遠四球を選択した。松井は20球を一度もスイングすることなく、一塁へ歩き続けた。試合は明徳義塾が3対2で勝利したが、9回のメガホン投げ込み、試合中断、そして勝者の校歌斉唱中に起きた「帰れ」コールによって、甲子園は異様な雰囲気に包まれた。

この出来事は、単なる野球の作戦をめぐる騒動ではない。勝利を最優先する監督の采配、勝負を期待した観客の反発、高校野球に求められる教育的価値、そして当事者たちが後年に語った本音が複雑に絡み合っている。2026年で事件から34年。松井秀喜、馬淵史郎監督、河野和洋投手らの証言をたどると、当時の騒動とは異なる側面も見えてくる。

【事件の全貌】松井敬遠と「帰れコール」は1992年8月16日に何が起きたのか

松井敬遠帰れコール

事件の舞台となったのは、第74回全国高校野球選手権大会の2回戦。対戦したのは、石川県代表の星稜高校と高知県代表の明徳義塾高校だった。

当時の星稜には、すでに高校球界屈指の長距離打者として注目されていた松井秀喜がいた。高校3年生の松井は、1年夏から甲子園に出場し、2年夏には本塁打を記録。3年春の選抜大会でも本塁打を重ねていた。

明徳義塾の馬淵史郎監督は、松井の打撃力を高く評価していた。試合前から松井との勝負を避ける方針を示しており、その警戒は実際の試合で徹底された。

5打席すべてが敬遠四球という異例の展開

松井の打席は全部で5回。明徳義塾の投手・河野和洋と捕手・青木貞敏のバッテリーは、一度も松井と正面から勝負しなかった。

  • 1回表・第1打席:2死三塁。先制の好機で敬遠。
  • 3回表・第2打席:1死二、三塁。再び敬遠。
  • 5回表・第3打席:1死一塁。3度目の敬遠。
  • 7回表・第4打席:2死走者なし。走者がいない状況でも敬遠。
  • 9回表・第5打席:2死三塁。最後の打席も敬遠。

結果は5打席連続四球。投じられた20球はすべてボールで、松井は一度もバットを振らなかった。

特に観客の反発が強まったのは、7回の第4打席だった。走者がいない状態でも敬遠が選択されたことで、単に得点圏の走者を警戒する作戦ではなく、松井に打たせないことそのものが明徳義塾の方針だと明確になったからだ。

試合結果は明徳義塾3対2星稜

試合そのものは、両校が接戦を繰り広げた展開だった。

明徳義塾は2回裏に2点を先制。3回表には星稜がスクイズで1点を返したが、その裏に明徳義塾が追加点を挙げた。さらに5回表、星稜が適時打で1点を加え、最終的には1点差となった。

星稜は最後まで追い上げを狙ったものの、9回表2死三塁から松井が5度目の敬遠で歩かされ、後続打者が倒れて試合終了。明徳義塾が3対2で逃げ切った。

週刊ベースボールが掲載した当時の試合経過によれば、松井の打撃成績は0打数0安打0打点、5四球。高校野球の歴史に残る極めて異例の記録となった。

【敬遠の理由】馬淵史郎監督はなぜ松井と勝負しなかったのか

松井敬遠事件の核心は、なぜ馬淵監督が5打席すべてで勝負を避ける判断をしたのかという点にある。

当時の馬淵監督にとって、松井は通常の高校生打者とは別格の存在だった。週刊ベースボールの記事では、馬淵監督が松井について「高校生の中にプロが1人まじっている」と評していたことが紹介されている。

松井の打撃力を警戒した明徳義塾の作戦

明徳義塾が松井を徹底して警戒した背景には、直前の試合で見せた打撃があった。

星稜は1回戦で長岡向陵(新潟)に11対0で勝利。松井は4打数1安打ながら、右中間フェンスに届く三塁打を放ち、2打点を記録していた。

明徳義塾の河野和洋投手は、後年のFRIDAYの取材で、1回戦を観戦して松井の打球の速さに驚いたと振り返っている。打球が飛んでいく速度は、高校生のスイングとは思えないほどだったという。

河野は加えて、松井に打たれれば試合の流れが一気に変わると考えていたことを明かした。

「今でも判断は正しかったと思います」

これは河野が2018年のFRIDAYの取材で語った内容だ。勝負を避けたことへの後悔はないという立場を示している。

河野和洋投手は3日前から敬遠策を知っていた

日刊スポーツの2018年復刻記事では、河野が先発を告げられた際、馬淵監督から全打席敬遠の指示を受けたと証言している。

つまり、試合中に突然生まれた判断ではなく、松井を封じるために事前に準備された作戦だった。

FRIDAYの取材でも、河野は松井との勝負を避ける具体的な指示を受けていたことを説明している。捕手の構え方や投球の外し方まで含め、意図的な敬遠を目立たせない工夫があった。

馬淵監督が明かした「勝負させる条件」

馬淵監督は試合後、敬遠を続けた理由について、得点差を重要な判断材料として挙げた。

「3回裏にスクイズが決まって3点差になっていれば勝負させました」

日刊スポーツの復刻記事によると、馬淵監督は1点差の展開では松井との勝負を避けざるを得なかったと説明している。

つまり、松井個人への敵意や感情的な対立ではなく、試合状況と勝率を考慮した采配だったというのが監督側の説明である。

一方、河野は後年の取材で、1度くらいは勝負したかったという投手としての気持ちも明かしている。監督の戦術に従う立場と、打者と正面から対決したい投手の気持ちは、必ずしも同じではなかった。

【関係者・証言一覧】松井敬遠事件に関わった人物とそれぞれの立場

この事件を正確に理解するには、松井だけでなく、敬遠を指示した監督、実際に投げた投手、敗れた星稜の監督、そして大会運営側の対応を整理する必要がある。

人物・関係者 当時の立場 事件との関係・主な証言
松井秀喜 星稜高校4番打者 5打席連続敬遠を受ける。後年、悔しかったのは敬遠そのものよりチームが負けたことだと振り返った。
馬淵史郎 明徳義塾監督 敬遠策を指示。勝つために必要な戦術だったと説明し、後年も判断を肯定している。
河野和洋 明徳義塾投手 松井への5打席連続敬遠を実行。1度は勝負したかったが作戦だったと後年証言。
青木貞敏 明徳義塾捕手 河野とバッテリーを組み、松井との勝負を避ける作戦を実行した。
山下智茂 星稜高校監督 高校野球だからこそ松井と勝負してほしかったと述べ、敗戦への悔しさを語った。
牧野直隆 日本高等学校野球連盟会長 試合後に異例の会見を行い、無走者の場面では正面から勝負してほしかったとの談話を発表。

注目したいのは、松井、河野、馬淵監督の3人が、後年になってもそれぞれ異なる視点から当時を振り返っていることだ。

河野は投手としての本音を語りながら、作戦自体は間違っていなかったと説明。馬淵監督は勝利を追求した判断を肯定し、松井は相手の作戦を受け入れながら、自分自身の成長につなげたと語っている。

同じ試合を経験していても、立場によって記憶や評価が異なる。その違いこそが、松井敬遠事件が長年にわたって議論される理由の一つだ。

【帰れコールの理由】メガホン投げ込みと明徳義塾の校歌斉唱で起きた騒動

検索されることの多い「松井敬遠帰れコール」という言葉には、2つの出来事が含まれている。

一つは9回表、松井が5度目の敬遠を受けた際に起きたメガホンなどの投げ込み。もう一つは試合終了後、勝者である明徳義塾が校歌を歌っている最中に起きた「帰れ」という怒号だ。

9回の敬遠で観客の怒りが頂点に

9回表2死三塁。星稜にとって最後の攻撃機会だった。

松井はこの試合で一度も勝負してもらえなかったが、最後の打席でも敬遠された。球場ではブーイングが強まり、スタンドから応援用メガホンなどがグラウンドに投げ込まれた。

日刊スポーツの復刻報道によれば、投げ込みによって試合は一時中断。星稜の控え選手や大会関係者らが回収に動く異例の光景となった。

観客の不満は、単に松井のホームランが見られなかったという理由だけではない。高校生同士が真っ向から勝負する姿を期待していた人々にとって、最後まで打者との対決が実現しなかったことが、大きな失望につながった。

明徳義塾の校歌斉唱中に「帰れ」コール

試合が終わり、明徳義塾の勝利が決まっても、球場の空気は収まらなかった。

勝者の校歌斉唱が始まると、三塁側スタンドを中心に「帰れ」というコールが起きた。通常なら勝利を祝福する場面で、明徳義塾の選手たちは厳しいブーイングを浴びることになった。

週刊ベースボールの記事では、勝利した明徳義塾の選手たちにも笑顔はなく、涙を浮かべていた様子が伝えられている。

この点は重要だ。帰れコールは松井本人に向けられたものではなく、敬遠策を実行して勝利した明徳義塾に対する観客の反発として起きたものだった。

宿舎への抗議電話と異例の警備体制

騒動は甲子園球場の中だけでは終わらなかった。

日刊スポーツの復刻記事によると、試合終了前後から大会本部には抗議電話が殺到。大会関係者は警備の増員を要請し、選手の移動経路には通常の約3倍に当たる警察官や警備員、約100人が配置された。

また、当時の宿舎にも抗議電話が相次いだと報じられている。明徳義塾の選手たちにとっては、勝利したにもかかわらず、試合後も緊張が続く状況だった。

高野連会長も異例の会見で見解を表明

事態を重く見た日本高等学校野球連盟は、当時の会長・牧野直隆による談話を発表し、異例の記者会見を実施した。

牧野会長は、両校が厳しい練習を重ねて甲子園に来たことを踏まえ、無走者の場面では正面から勝負してほしかったとの趣旨を述べた。

特に問題となったのは、勝利を目指すこと自体ではなく、高校野球が持つ教育的な側面とのバランスだった。

一方、明徳義塾の敬遠策は当時の野球規則に反する行為ではなかった。反則負けになったわけでも、試合結果が取り消されたわけでもない。争点はルール違反の有無ではなく、ルール上認められる戦術を高校野球でどこまで徹底すべきかという価値観の問題だった。

【事件のその後】松井・馬淵・河野の証言と高校野球に残した影響

1992年の騒動は、試合直後だけでなく、その後も長く高校野球の議論に影響を与えた。

当時は明徳義塾への批判が目立った一方、勝利を目指すための合理的な作戦として敬遠を肯定する意見もあった。時代が進むにつれて、当事者たちの証言や高校野球指導者の意識も明らかになっている。

馬淵監督は後年も敬遠策を肯定

2018年のFRIDAYの取材で、河野は松井を敬遠した判断について、現在も後悔していないと説明した。

さらに2020年、毎日新聞が掲載した馬淵監督と星稜の林和成監督による対談では、馬淵監督が当時の采配について振り返っている。記事のタイトルにもなったのは「タイムスリップしたらもう1回、同じことをやる」という趣旨の発言だった。

この発言からも、馬淵監督が敬遠を単なる苦肉の策ではなく、勝つために選択した戦術として捉え続けていることが分かる。

松井秀喜は敬遠よりもチームの敗戦が悔しかった

一方、松井自身の受け止め方は、世間のイメージと少し異なる。

2023年4月、デイリースポーツは、松井が自身の野球教室で子どもたちから5打席連続敬遠について質問された際の発言を報じた。

松井は、高校最後の試合で一度もスイングできなかったことを振り返りながら、特に残念だったのはチームが負けたことだと説明。敬遠を指示したのはベンチだと理解しており、河野個人に怒りを感じていたわけではないとも語った。

さらに2025年1月5日放送のBS-TBS特番「イチローVS松井秀喜~今だから話せる本音対談~」では、松井が5敬遠について改めて言及した。

「勝手にでき上がった伝説」

松井は、自分自身が何かを成し遂げたわけではないのに、5敬遠という出来事が一人歩きして伝説になったという感覚を明かした。

また、明徳義塾の校歌については、当時の大きなブーイングによって「一切聞こえなかった」と振り返っている。

その一方で、5敬遠という出来事が自分の実力を証明したいという気持ちにつながり、プロで努力するエネルギーになったとも語った。

ここから見えてくるのは、松井が敬遠を単なる屈辱として記憶しているわけではないということだ。高校最後の敗戦は悔しかった。しかし、その経験を自分の将来に生かしていった。

2017年の監督アンケートでは「あり」が52%

敬遠策の是非を考えるうえで興味深いのが、2017年に朝日新聞社が実施した高校野球監督へのアンケートだ。

第99回全国高校野球選手権の埼玉大会出場校の監督を対象とした調査では、151人の有効回答のうち79人、約52%が5打席連続敬遠を「あり」と回答した。一方、「なし」は51人、約34%だった。

この調査は全国の高校野球監督全員を対象にしたものではなく、埼玉大会出場校の指導者に限られる。それでも、事件から25年が経過した時点で、肯定的な意見が半数を超えていたことは注目に値する。

「あり」とする立場には勝利を目指す戦術としての合理性があり、「なし」とする立場には高校生が練習の成果を発揮する機会を大切にしたいという考えがある。

つまり、事件をめぐる議論は、単純な正解・不正解では片付けられない。

【プロの結論】松井敬遠事件が34年後も語り継がれる本当の理由

2026年現在、松井秀喜の5打席連続敬遠は、甲子園の歴史に残る象徴的な出来事として記憶されている。

この事件を理解するためには、少なくとも3つの視点を分けて考える必要がある。

1. 競技としての野球では、敬遠も勝つための戦術

明徳義塾は松井の打撃力を警戒し、次打者との勝負を選んだ。強打者を歩かせることで失点の危険を抑えることは、野球の戦術として成立する。

実際、馬淵監督と河野は後年も判断を肯定している。明徳義塾はルールの範囲内で試合を進め、3対2で勝利した。

2. 高校野球には勝敗以外の価値も求められる

一方、甲子園はプロ野球とは異なる舞台でもある。高校生が日々の練習で身につけた技術を発揮し、対戦相手と競い合う姿を観客が期待するのは自然なことだ。

牧野会長の談話や山下監督の発言には、こうした高校野球特有の価値観が表れている。

ただし、観客の期待とチームが勝利を目指す権利は、必ずしも一致しない。観客が望む勝負を監督が選択しなかったからといって、選手への物の投げ込みや過度な抗議が正当化されるわけではない。

3. 松井自身が事件を成長のきっかけに変えた

最も印象的なのは、当事者である松井の後年の言葉だ。

松井は5敬遠という記憶を背負うだけでなく、それを自分の実力を証明するための原動力に変えた。高校最後の試合で打席に立てなかった悔しさを、その後の野球人生につなげている。

2025年のイチローとの対談で語られた「勝手にでき上がった伝説」という表現も、事件が本人の意図とは異なる形で世間に受け継がれてきたことを象徴している。

松井敬遠事件の本質は、敬遠が正しいか間違っているかだけではない。勝つための合理性と、高校野球に期待されるフェアプレー精神が正面からぶつかったことにある。

そして、勝者への「帰れ」コールやメガホン投げ込みもまた、スポーツ観戦における観客の責任を考えさせる出来事だった。

【よくある質問】松井敬遠と帰れコールに関するFAQ

Q1:松井秀喜が5打席連続敬遠されたのはいつですか?
A1:1992年8月16日です。第74回全国高校野球選手権大会の2回戦、星稜高校対明徳義塾高校の試合で起きました。明徳義塾が3対2で勝利しています。

Q2:松井敬遠の際に「帰れ」と叫んだのは誰ですか?
A2:試合を観戦していた一部の観客です。特に試合終了後、明徳義塾の校歌斉唱中に三塁側スタンドを中心として「帰れ」コールが起きました。特定の個人が発したものではなく、観客席で広がった集団的な反発として報道されています。

Q3:馬淵史郎監督はなぜ松井を5回も敬遠したのですか?
A3:松井の打撃力を非常に警戒していたためです。馬淵監督は、僅差の試合で松井と勝負すれば流れが変わる可能性があると考え、勝利を優先して全打席敬遠を指示しました。

Q4:松井秀喜は敬遠されたことを今でも怒っているのですか?
A4:後年の本人の発言からは、敬遠そのものへの怒りよりも、チームが負けたことへの悔しさが大きかったことが分かります。2023年には敬遠がプロで頑張るエネルギーになったと語り、2025年にも当時の出来事を振り返っています。

Q5:5打席連続敬遠は野球のルール違反だったのですか?
A5:いいえ。当時の野球規則に反する行為ではありませんでした。問題になったのは、ルール上認められる敬遠を高校野球という教育的側面の強い大会で徹底することの是非です。

1992年8月16日の星稜対明徳義塾戦は、松井秀喜への5打席連続敬遠によって、日本の高校野球史に残る大きな騒動となった。

明徳義塾は馬淵史郎監督の指示のもと、河野和洋投手らが徹底した敬遠策を実行。松井は20球を一度も振ることなく一塁へ歩き、チームは3対2で敗れた。

9回のメガホン投げ込み、試合中断、そして明徳義塾の校歌斉唱中に起きた「帰れ」コール。これらの出来事は、勝利を追求する戦術と高校野球の理想像が衝突した瞬間を象徴している。

馬淵監督と河野は作戦を肯定し、山下監督は勝負してほしかったと振り返った。そして松井は、敗戦の悔しさをプロで活躍するための力に変えていった。

2026年、事件から34年が経過しても、この試合が語り継がれるのは、単に5回敬遠されたという珍しい記録があるからではない。スポーツにおける勝利とは何か、高校野球に何を求めるのか、そして観客は選手や指導者にどう向き合うべきなのかという問いを残したからだ。

松井秀喜の5打席連続敬遠は、勝者と敗者の双方に大きな記憶を刻んだ。甲子園の歴史を振り返るうえで、今なお避けて通れない一戦である。

主な参照報道:日刊スポーツ、週刊ベースボール、FRIDAY、毎日新聞、デイリースポーツ、スポニチ、J:COM掲載・二宮清純コラム。

同じカテゴリの記事

伊部 拓海
コンテンツディレクター 伊部 拓海
プロフィールを見る →

映画・ドラマ担当。公開資料と一次報道を照合し、ネタバレの扱いには線引きルールを設けています。

おすすめの関連記事