デヴィ夫人の本名は、ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno)です。日本で生まれたときの名前は根本七保子。インドネシアではデヴィ・スカルノ、あるいはラトナ・サリ・デヴィとして知られています。
1940年2月6日、東京に生まれました。2026年11月現在、86歳です。
根本七保子として過ごした少女時代デヴィ夫人は、戦後の東京で育ちました。インドネシア大統領夫人という後年の華やかな肩書きとは対照的に、若い頃は仕事をしながら生活を支える立場にありました。
インドネシア大統領公文書館の人物資料によると、彼女は中学校卒業後、千代田生命保険会社で働き、その後、東京・赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」で接客の仕事に就いています。
外国人の外交関係者や経済人が訪れる社交の場で、語学や国際的な人脈に触れる機会を得たことは、その後の人生に大きな影響を与えました。
ここで注目したいのは、彼女が単に大統領に見初められた女性として歴史に登場したわけではないことです。
後年の活動を見ると、社交界で身につけた対人能力や国際感覚を、慈善事業や事業活動にも生かしてきたことが分かります。
名前が変わった理由スカルノ大統領との結婚に伴い、根本七保子はインドネシア名の「ラトナ・サリ・デヴィ」を名乗るようになりました。
その後、日本では「デヴィ夫人」という愛称が広く定着します。
| 名前 | 意味・位置づけ |
|---|---|
| 根本七保子 | 日本で生まれたときの名前 |
| ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ | インドネシア名・本名として知られる名前 |
| デヴィ・スカルノ | 国際的に使用される名前 |
| デヴィ夫人 | 日本のメディアで定着した愛称 |
現在の華やかなイメージは、こうした複数の文化圏での経験と、長年にわたる本人の活動によって形づくられたものです。
【1959年の運命的な出会い】スカルノ大統領とデヴィ夫人はどう知り合った?

二人が出会ったのは1959年です。
当時、スカルノ大統領はインドネシアの国家元首として、日本との外交・経済関係を深めるために来日していました。
スカルノは1901年生まれで、デヴィ夫人とは39歳近い年齢差がありました。
出会いの場所には複数の証言がある二人の出会いについては、いくつかの説明が伝わっています。
インドネシア大統領公文書館の人物紹介では、1959年6月16日、スカルノが東京・赤坂のクラブ「コパカバーナ」を訪れ、そこで根本七保子と知り合ったとされています。
一方、デヴィ夫人自身はテレビ出演時に、友人と映画を見に行くために待ち合わせをしていたところ、偶然スカルノ大統領一行と遭遇したというエピソードを語っています。
加えて、歴史研究を扱うToynbee Prize Foundationの記事では、日本の実業家・久保正雄の紹介によって二人が知り合ったという経緯が紹介されています。
つまり、出会いの年は1959年で一致するものの、最初に接点を持った場所や紹介の経緯には異なる説明が残っています。
スカルノ大統領はどのような人物だったのかは、インドネシア独立運動を率いた政治家であり、1945年に独立を宣言した同国の初代大統領です。
強いカリスマ性を持ち、アジア・アフリカ諸国の連帯を重視する外交政策を進めました。
1955年にはインドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開催され、植民地主義からの独立を目指す国々の国際的な連携を象徴する出来事となりました。
一方、国内では経済問題や政治勢力間の対立が深まり、1960年代には軍との関係も不安定になっていきます。
デヴィ夫人との出会いは、こうしたインドネシアの政治的な転換期に位置していました。
出会いから結婚までの流れデヴィ夫人の回想を紹介した2019年の報道によると、二人は出会った後に文通を続け、スカルノ大統領からインドネシアへ招かれたとされています。
そして、交際を経て結婚に至りました。
当時のデヴィ夫人はまだ20代前半。相手は世界的に知られる国家元首でした。
この結婚は、個人的な恋愛だけでなく、日本とインドネシアの関係、外交、国際的な社交界という複数の背景を持つ出来事だったのです。
【1962年の結婚と第三夫人の真相】結婚年や夫人の序列は?
スカルノ大統領とデヴィ夫人の結婚について、最も有力な年は1962年です。
ただし、結婚した年月日や夫人としての序列については、資料によって違いがあります。
この部分は、検索する人が特に混乱しやすいポイントです。
結婚年は1962年が有力インドネシア大統領公文書館の人物資料には、二人の結婚について次の二つの記録が紹介されています。
- 1962年3月3日に内々に結婚したという説
- 1964年5月に正式な結婚が行われたという説
同公文書館は、前者の1962年説が正しい可能性が高いという見解を示しています。
また、ケンブリッジ大学出版局の『A History of Modern Indonesia』に掲載された人物略歴でも、Ratna Sari Dewi(Naoko Nemoto)との結婚年は1962年とされています。
日本の報道でも1962年の結婚が紹介されており、1962年説を支持する資料は複数存在します。
したがって、記事やプロフィールで結婚年を記載する場合は、1962年を基本とするのが妥当です。
ただし、内々の婚姻と公的な儀礼・公表の時期が同一だったかどうかは、区別して理解する必要があります。
なぜデヴィ夫人は第三夫人と呼ばれるのかデヴィ夫人は、日本では一般にスカルノ大統領の第三夫人として紹介されています。
講談社の『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』でも、1962年に第三夫人となった人物として説明されています。
しかし、インドネシア側の公的資料には別の表記があります。
インドネシア大統領公文書館のPresidenpediaでは、Ratna Sari Dewiをスカルノの「第五夫人」と記載しています。
加えて、ケンブリッジ大学出版局の人物略歴では、スカルノの過去の婚姻関係として、次の女性たちが挙げられています。
- Siti Utari
- Inggit Garnasih
- Fatmawati
- Hartini
- Kartini Manoppo
- Ratna Sari Dewi
このように、婚姻関係をどこまで数えるかによって、夫人の序列の表現が変わります。
そのため、「第三夫人」という呼び方は日本で定着した紹介表現として理解し、婚姻の通算順位については資料ごとの記載を区別するのが適切です。
結婚の背景にあった一夫多妻制スカルノ大統領には、デヴィ夫人以外にも複数の妻がいました。
当時のインドネシア社会にはイスラム法に基づく一夫多妻婚の慣行があり、スカルノ自身も複数の婚姻関係を持っていました。
ただし、イスラム教徒であれば誰でも自由に複数の妻を持てるという単純な話ではありません。扶養や公正な扱いなどの条件が関係します。
デヴィ夫人は、こうした複雑な家庭環境の中でスカルノの妻となりました。
彼女の立場は、単なる外国人の交際相手ではありません。国家元首の正式な妻として、インドネシアの政治・外交に近い環境で生活することになったのです。
【インドネシア政変とパリ亡命】デヴィ夫人の人生を変えた1965〜1967年
デヴィ夫人の人生を大きく変えたのが、1965年以降のインドネシア政変です。
スカルノ大統領が政治的な影響力を失い、スハルトを中心とする新体制が成立していく過程で、デヴィ夫人もインドネシアを離れることになりました。
1965年:9月30日事件と政局の混乱1965年9月30日、インドネシアでは軍幹部の殺害を伴う事件が発生しました。
一般に「9月30日事件(G30S)」と呼ばれるこの出来事をきっかけに、軍と政治勢力の対立が激化します。
その後、スカルノ大統領の政治的な立場は急速に弱まっていきました。
軍の実権を握ったスハルトが台頭し、国内では大規模な政治的弾圧や社会的混乱が続きます。
この政変を理解する際には、単純に一度のクーデターで政権が交代したと捉えないことが重要です。
実際には、1965年の事件を起点に、1966年、1967年と段階的に権力が移っていきました。
1966年:スカルノ大統領の権力移譲1966年3月11日、スカルノ大統領は軍の指導部に権限を委ねる内容の文書に署名しました。
これは一般に「スーパー・スマール」と呼ばれる命令書です。
その後、スハルト側の政治的影響力はさらに強まり、スカルノの実権は失われていきました。
ケンブリッジ大学出版局の近代インドネシア史の人物略歴でも、1965年の政変後、スカルノが軍から圧力を受け、1966年3月の命令書を通じて暫定的に権限を移譲した経緯が記されています。
1967年:大統領の地位を失い、パリへ1967年3月12日、インドネシアの暫定国民協議会は、スカルノから国家統治権限を剥奪する決定を行いました。
その後、スハルトが暫定大統領として国家運営を担います。
この権力交代については、米国務省が公開している外交文書にも記録が残っています。
同文書は、1967年3月にスカルノが完全に政治権力を失い、スハルトを中心とする新秩序体制が実権を握ったと説明しています。
デヴィ夫人はなぜパリへ亡命したのかスカルノ大統領の失脚によって、デヴィ夫人の生活環境も大きく変わりました。
デヴィ夫人の所属事務所が公開しているプロフィールでは、政変後の1967年にパリへ亡命したと記されています。
また、2020年にABEMA TIMESが紹介した本人のブログ投稿では、亡命当時の写真について、娘カリナが生後6か月だった1967年9月のものと説明されています。
本人の回想によれば、サンフランシスコやニューヨークを経由してパリへ向かった時期の写真です。
このとき、デヴィ夫人は幼い娘を連れて国外で生活することになりました。
一方、スカルノ大統領はインドネシア国内で事実上の軟禁状態に置かれ、1970年6月21日にジャカルタで亡くなりました。
夫婦は政治的な事情によって離れて暮らすことになり、最後まで同じ場所で生活することはありませんでした。
亡命後の生活とニューヨーク時代デヴィ夫人はパリでの生活を経て、欧米の社交界で活動するようになります。
その後、ニューヨークへ移住し、国際的な人脈を生かして慈善活動や事業にも関わりました。
所属事務所のプロフィールでは、1990年にニューヨークへ移住し、国連環境計画(UNEP)の特別顧問として活動したと紹介されています。
一方、日本の人物事典などには1991年と記載される例もあります。
このように移住時期には一年程度の表記差がありますが、スカルノ大統領の死後、欧米を拠点に活動を続けたことは共通しています。
その後、日本に活動の拠点を戻し、テレビ出演や講演、慈善活動などへ活動範囲を広げていきました。
【スカルノ大統領とデヴィ夫人の関係を年表で整理】娘カリナとの家族関係も解説
ここまでの経緯を、出会いから2026年までの時系列で整理します。
二人の関係と主要な出来事デヴィ夫人とスカルノ大統領の間には、一人娘のカリナがいます。
正式にはカルティカ・サリ・デヴィ(Kartika Sari Dewi)と呼ばれ、カリナという愛称でも知られています。
インドネシア大統領公文書館の資料にも、スカルノとデヴィ夫人の間に生まれた娘として記載されています。
カリナが生まれたのは1967年です。
デヴィ夫人がパリへ亡命した時期には、まだ生後間もない赤ちゃんでした。
そのため、母娘の人生はスカルノの失脚と亡命という歴史的な出来事に強く結びついています。
娘カリナの現在と慈善活動カリナは、母親と同じく国際的な活動に関わってきました。
デヴィ夫人の公式ブログによると、カリナは1998年に「カルティカ・スカルノ財団(Kartika Soekarno Foundation)」を設立しました。
財団はインドネシアの子どもたちを対象に、教育や健康面の支援を行うことを目的としています。
具体的には、学校の建設や教育機会の提供などに取り組んできました。
また、デヴィ夫人の2020年のブログ紹介では、カリナは結婚して母親となり、ロンドンで生活していると説明されています。
つまり、スカルノ大統領とデヴィ夫人の関係は、歴史上の夫婦関係だけでなく、次の世代の家族や社会貢献活動にもつながっています。
【デヴィ夫人の現在・2026年最新情報】活動内容と最近の報道
2026年11月現在、デヴィ夫人は86歳です。
スカルノ大統領の妻として知られる一方、日本では独自のキャラクターを持つタレント、国際文化人、慈善活動家として認知されています。
現在の主な活動所属事務所の株式会社オフィス デヴィ スカルノが紹介する主な活動は、次のとおりです。
- テレビ番組への出演
- 講演活動
- コメンテーターとしての活動
- 国際的な社交・文化活動
- NPOアースエイド・ソサエティを通じた慈善活動
- 出版・情報発信
特に慈善活動は、デヴィ夫人のキャリアを理解するうえで欠かせません。
所属事務所の公式プロフィールでは、国際的な人脈を生かしてNPOアースエイド・ソサエティを発足させ、地球規模での支援活動に取り組んでいると説明されています。
また、フランスの社交界文化を背景とした雑誌「POINT DE VUE」の日本版「POINT DE VUE JAPON」では編集長を務めています。
テレビでの華やかな姿だけでは、現在の活動の全体像は把握できません。
2026年10月の裁判報道について2026年の近況を語るうえで、刑事裁判に関する報道もあります。
2026年10月6日、東京地方裁判所は、デヴィ夫人ことデヴィ・スカルノ被告に対し、罰金20万円の判決を言い渡しました。
報道によると、対象となったのは2025年2月と同年10月に起きた二つの暴行事件です。
- 2025年2月:東京都渋谷区の飲食店で、当時の秘書に物品を投げつけたとされる件
- 2025年10月:東京都渋谷区の動物病院で、当時のマネージャーに暴行を加えたとされる件
東京地裁は、被害者側の供述や映像などを踏まえて暴行の事実を認定し、検察側の求刑と同じ罰金20万円を言い渡しました。
一方、デヴィ夫人は公判で一部の行為について否認する発言をしていたと報じられています。
これはスカルノ大統領との歴史的な関係とは別の問題ですが、2026年の本人の近況を把握するうえで重要な出来事です。
2026年現在も情報発信を継続デヴィ夫人の公式ブログには、2026年10月14日付の記事が掲載されています。
裁判に関する発信や社会問題への意見表明など、現在も自らの考えを公にする活動を続けています。
また、所属事務所の公式プロフィールでは、現在の活動拠点を日本としています。
86歳になった現在も、長年築いてきた国際的な人脈や知名度を背景に、社会的な発信を続けていることが分かります。
【プロの結論】デヴィ夫人とスカルノ大統領の関係から読み解く3つのポイント
デヴィ夫人の人生を理解するうえで、押さえておきたい要点は三つあります。
1. 1959年の出会いと1962年の結婚は区別するインターネット上では、1959年にスカルノ大統領と結婚したとする記述が見られることがあります。
しかし、1959年は出会いの年であり、結婚年として有力なのは1962年です。
この違いを理解するだけでも、プロフィール情報の混乱を避けられます。
2. 第三夫人という呼称だけで婚姻関係を判断しない日本の人物事典では第三夫人、インドネシアの大統領公文書館では第五夫人と紹介されています。
こうした違いは、スカルノの複数の婚姻関係をどう整理するかという問題に関係しています。
したがって、単に「第三夫人」という肩書きだけを見て、結婚の順番や家庭内の立場を断定することはできません。
3. デヴィ夫人の人生を亡命で終わらせない1967年のパリ亡命は、彼女の人生における大きな転換点でした。
しかし、その後もニューヨークでの生活、国際的な社交活動、日本での芸能活動、慈善活動など、長い年月をかけて新たなキャリアを築いています。
スカルノ大統領の妻という肩書きは、彼女の歴史を理解する重要な要素です。
ただし、それだけで86年間の人生を説明することはできません。
【スカルノ大統領とデヴィ夫人】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:デヴィ夫人とスカルノ大統領は何年に結婚しましたか?
1962年が有力です。インドネシア大統領公文書館では1962年3月3日に内々に結婚したという説を有力視しています。一方、1964年5月に正式な結婚が行われたとする記録もあります。
Q2:デヴィ夫人はスカルノ大統領の第三夫人だったのですか?
日本の人物事典や報道では第三夫人と紹介されることが多いです。ただし、インドネシア大統領公文書館では第五夫人とされています。婚姻関係の数え方によって表記が異なります。
Q3:デヴィ夫人とスカルノ大統領はどこで出会いましたか?
1959年の来日時に東京で出会いました。インドネシア大統領公文書館は赤坂のクラブ「コパカバーナ」を挙げています。一方、デヴィ夫人自身は映画館へ向かう途中の偶然の遭遇を回想しています。
Q4:デヴィ夫人がパリへ亡命したのは何年ですか?
1967年です。スカルノ大統領が政治的権力を失った後、デヴィ夫人は幼い娘カリナを連れて国外へ移り、パリで生活することになりました。
Q5:デヴィ夫人とスカルノ大統領の間に子供はいますか?
一人娘のカリナ(カルティカ・サリ・デヴィ)がいます。カリナは慈善活動にも取り組み、カルティカ・スカルノ財団を設立しています。
Q6:スカルノ大統領はいつ亡くなりましたか?
1970年6月21日です。インドネシアのジャカルタで亡くなりました。デヴィ夫人はすでに国外で生活していました。
Q7:デヴィ夫人は2026年現在何歳ですか?
1940年2月6日生まれのため、2026年11月現在86歳です。日本を活動拠点として、情報発信や慈善活動などに取り組んでいます。
スカルノ大統領とデヴィ夫人の関係は、1959年の出会いから1962年の結婚、1965年以降のインドネシア政変、1967年のパリ亡命へと続く、国際政治と個人の人生が交差した歴史です。
結婚年は1962年が有力ですが、婚姻の正式な時期には異なる記録があります。また、第三夫人という呼称も、日本とインドネシアの資料で違いが見られます。
二人の間に生まれた娘カリナは、母親と同じく国際的な活動に関わり、教育支援にも取り組んできました。デヴィ夫人自身も、亡命後に欧米で生活基盤を築き、日本でタレントや慈善活動家として新たなキャリアを切り開いています。
2026年現在のデヴィ夫人を理解するには、スカルノ大統領の妻だった時代だけでなく、その後の国際的な活動や近年の社会的な動向まで含めて見る必要があります。華やかな肩書きの裏側には、インドネシアの歴史的転換に翻弄されながら、自らの人生を築いてきた一人の女性の歩みがあります。