倍賞明(ばいしょう・あきら)さんは、女優の倍賞千恵子さんと倍賞美津子さんを姉妹に持つ、元社会人野球選手・監督です。1962年の選抜高校野球大会で日大三高の準優勝に貢献し、日本大学、鐘紡、日産自動車で野球人生を歩みました。2019年1月22日、74歳で亡くなっています。
芸能界で活躍した姉妹とは異なる道を選び、野球選手として実績を残した倍賞明さん。2016年には全日本大学野球選手権大会で始球式を務め、50年ぶりに神宮球場のマウンドに立ちました。ここでは、本人のインタビュー、野球関係団体の大会記録、当時の訃報報道などを基に、経歴や家族構成、晩年までを整理します。
【人物関係】倍賞明は倍賞千恵子の弟で、倍賞美津子の兄

倍賞明さんを知るうえで最初に押さえておきたいのが、倍賞千恵子さん、倍賞美津子さんとの関係です。
明さんは、女優の倍賞千恵子さんにとっては弟、女優の倍賞美津子さんにとっては兄です。
つまり、千恵子さんと美津子さんの間に生まれた兄弟ではなく、両姉妹と同じ両親を持つ実の兄弟にあたります。
2019年1月25日付の日刊スポーツの訃報では、倍賞千恵子さんの弟として明さんの死去が報じられました。同日のデイリースポーツも、千恵子さんの弟であり、美津子さんの兄であることを伝えています。
この関係は、単なる芸能人の親族というものではありません。明さん自身も、日大三高から日本大学、社会人野球へと進んだ独自の経歴を持っています。
倍賞千恵子との関係倍賞千恵子さんは1941年生まれの女優・歌手です。映画『男はつらいよ』シリーズのさくら役などで広く知られています。
明さんは千恵子さんより年下の弟です。
2016年に公開された野球専門メディア「Full-Count」のインタビューでは、明さん自身が姉の千恵子さんとのエピソードを語っています。
大学時代には、長嶋茂雄さんと偶然出会った際、日大三高出身で甲子園準優勝を経験した選手として認識され、さらに姉が千恵子さんであることも知られていたそうです。
このエピソードからも、明さんは姉の知名度だけでなく、自身の野球経歴を通じて周囲に知られていた人物だったことが分かります。
倍賞美津子との関係倍賞美津子さんは1946年生まれの女優です。
明さんは美津子さんより年上の兄にあたります。
美津子さんは俳優として数多くの作品に出演し、元プロレスラーのアントニオ猪木さんとの結婚でも知られています。
姉妹が芸能界で活躍する一方、明さんは野球界を中心に活動しました。同じ家庭で育ちながら、それぞれ異なる分野でキャリアを築いた兄弟姉妹だったのです。
【野球人生の原点】日大三高で1962年センバツ準優勝
倍賞明さんの野球人生を語るうえで欠かせないのが、日大三高時代の活躍です。
明さんは東京都北区立紅葉中学校(現在の北区立滝野川紅葉中学校)に通い、中学生のころから本格的に野球に取り組んでいました。
当時の中学校は野球の強豪として知られ、東京都大会で優勝。その試合を見に来ていた日大三高のスカウトから声をかけられたことが、進学のきっかけになりました。
2016年のFull-Countのインタビューでは、日大三高の練習を見学した際、初めて寿司を食べたという思い出も紹介されています。
当時の家庭では、遠足などで食べるいなり寿司や海苔巻きが身近だったため、豪華な昼食に驚いたというエピソードです。
1962年、第34回選抜高校野球大会で準優勝明さんが高校3年生だった1962年、日大三高は第34回選抜高校野球大会に出場しました。
大会は3月29日から4月7日まで開催され、日大三高は決勝まで勝ち進みます。
決勝の相手は栃木県代表の作新学院でした。
試合は投手戦となり、日大三高は最後まで得点を奪えず、結果は0対1。惜しくも優勝を逃しましたが、学校として初めてのセンバツ準優勝を達成しています。
当時の倍賞明さんは、打線の中心を担う3番・一塁手として出場しました。
高校野球の記録資料によると、2回戦の滝川戦では9回裏に同点となる2点適時二塁打を放ち、チームの延長12回サヨナラ勝利に貢献しています。
さらに準々決勝の鎌倉学園戦でも、決勝点となる適時打を記録しました。
単に準優勝チームの一員だっただけではなく、勝ち上がりの過程で重要な働きをした選手だったのです。
1962年夏の甲子園でもベスト8同年夏の日大三高は、全国高等学校野球選手権大会にも出場しました。
春のセンバツに続いて甲子園に立ち、夏は準々決勝まで進出。ベスト8という成績を残しています。
春夏連続で全国大会に出場したことは、明さんの高校時代を代表する実績です。
高校野球の記録サイトによる集計では、1962年春夏の甲子園通算成績は29打数16安打、打率.552となっています。
この数字からも、当時の明さんが打撃面で存在感を示していたことがうかがえます。
【経歴・年表】日本大学から鐘紡、日産自動車の監督へ
高校卒業後、倍賞明さんは日本大学に進学し、大学野球の世界へ進みました。
その後は社会人野球の鐘紡、日産自動車で選手として活動し、さらに日産自動車では監督を務めています。
主な経歴を時系列で整理すると、次のとおりです。
| 年代 | 出来事 | 詳細・実績 |
|---|---|---|
| 1944年 | 誕生 | 東京都出身 |
| 1962年春 | 日大三高で甲子園出場 | 第34回選抜高校野球大会で準優勝 |
| 1962年夏 | 夏の甲子園出場 | 日大三高のベスト8に貢献 |
| 1966年 | 日本大学で大学日本一 | 第15回全日本大学野球選手権大会で優勝 |
| 大学卒業後 | 鐘紡に入社 | 社会人野球選手として活動 |
| その後 | 日産自動車へ移籍 | 都市対抗野球などで活躍 |
| 1975年 | 日産自動車の監督に就任 | 30歳で指導者の立場へ |
| 1976年 | 都市対抗野球大会に出場 | 監督としてチームを率いる |
| 2016年6月 | 始球式 | 第65回全日本大学野球選手権で始球式 |
| 2019年1月22日 | 死去 | 74歳 |
日本大学野球部に所属した明さんは、1966年の第15回全日本大学野球選手権大会で優勝を経験しました。
日本大学野球部の公式沿革にも、1966年の春季リーグ優勝と全日本大学野球選手権大会での2度目の優勝が記録されています。
この大学日本一は、後年の2016年に明さんが始球式を務めるきっかけにもなりました。
高校時代の甲子園準優勝だけでなく、大学野球でも全国制覇を経験していたことは、明さんの経歴を理解するうえで要点です。
鐘紡野球部での選手生活大学卒業後、明さんは鐘紡に進み、社会人野球選手としてプレーしました。
しかし、Full-Countの2016年のインタビューによると、入社から約2年後、会社の業績悪化に伴って野球部が解散することになりました。
その後、日大三高や日本大学の先輩が在籍していた日産自動車へ移籍します。
競技を続けるために所属先を変えたこの経験は、社会人野球の歴史における企業チームの存在感や、企業経営とスポーツ活動が密接に結びついていた時代背景を感じさせます。
1975年、30歳で日産自動車の監督に就任日産自動車では選手としてだけでなく、指導者としても活動しました。
Full-Countのインタビューによれば、明さんは1975年、30歳のときに監督へ就任しています。
翌1976年には都市対抗野球大会への出場を果たしました。
当時、日産自動車の対戦相手には、落合博満さんが所属していた東芝府中もいました。
明さんはインタビューで、落合さんの打撃能力を高く評価していたことも明かしています。
当時のスカウトの間では独特の打法を理由にプロでの活躍を疑問視する声もあったそうですが、明さんはその打撃を早くから評価していたといいます。
選手として甲子園と大学日本一を経験し、社会人野球で指導者となった明さん。その野球人生は、単なる競技歴にとどまらないものでした。
【2016年の始球式】50年ぶりに神宮球場のマウンドへ
倍賞明さんの晩年を振り返るうえで、2016年の始球式は印象的な出来事です。
2016年6月6日、第65回全日本大学野球選手権記念大会の開幕日に、明さんは神宮球場で始球式を務めました。
これは、1966年の第15回大会で日本大学が優勝した際のメンバーとして招かれたものです。
公益財団法人全日本大学野球連盟の大会公式記録にも、第15回大会で優勝した日本大学の内野手・倍賞明さんが始球式を行ったと記されています。
50年という時間を経て再び神宮へ2016年のFull-Countの記事では、明さんが50年ぶりに神宮球場のグラウンドに立ったと紹介されています。
かつて大学野球日本一を経験した選手が、半世紀を経て再び同じ舞台に戻ったことになります。
始球式で使用したグローブは、日大出身の巨人・長野久義選手から贈られたものでした。
明さんが経営していた飲食店には、社会人野球の選手たちも訪れており、長野選手も社会人時代から店に来ていたそうです。
始球式を務めることになったと伝えたところ、長野選手がプロ仕様のグローブを用意してくれたと、明さん自身が振り返っています。
野球を離れた後も続いた野球とのつながり2016年当時、明さんは六本木で飲食店を経営していました。
Full-Countの記事では、店内にさまざまな高校や大学の野球ユニフォームが飾られ、野球ファンが集まって明さんと野球談議を楽しんでいた様子も紹介されています。
現役選手や監督としての活動を終えても、野球との関係は続いていました。
かつての仲間との再会や後輩選手との交流は、明さんの人生において野球が長く大きな位置を占めていたことを示しています。
【倍賞家の家族構成・家系図】明の父母と兄弟姉妹を整理
倍賞明さんを調べる際には、倍賞家全体の家族構成も検索されることがあります。
倍賞家は、千恵子さんと美津子さんだけでなく、スポーツや芸能に関係する人物を輩出した家系です。
人事興信録を参考文献として掲げる家系資料「閨閥学」では、父を倍賞美悦さん、母を青木はなさんとして、次のような家族構成が整理されています。
倍賞家の家系図- 父:倍賞美悦
- 母:青木はな
- 長男:倍賞明
- 二男:倍賞鉄夫
- 長女:倍賞節子
- 二女:倍賞千恵子
- 三女:倍賞美津子
この資料によると、倍賞明さんを含む5人きょうだいです。
特に注目されるのが、兄弟姉妹それぞれの活動分野です。
倍賞鉄夫との関係倍賞鉄夫さんは、明さんの弟にあたる人物です。
新日本プロレスで副社長などを務めたことで知られています。
2017年に亡くなっており、プロレス界に関わった人物としても倍賞家の名前が知られる理由の一つです。
倍賞節子との関係倍賞節子さんも、家系資料に記載されている明さんの妹です。
芸能界で広く知られる千恵子さんや美津子さんと比べ、一般に紹介される情報は限られています。
兄弟姉妹の活動分野倍賞家の兄弟姉妹は、それぞれ異なる分野で活動してきました。
- 倍賞明:高校野球・大学野球・社会人野球の選手、監督
- 倍賞鉄夫:新日本プロレスの運営に携わった人物
- 倍賞節子:家系資料に記載されている妹
- 倍賞千恵子:映画・舞台・歌手活動で知られる女優
- 倍賞美津子:映画・テレビなどで活躍する女優
このように、倍賞家は芸能界だけでなく、スポーツ界にも関わりのある家族です。
なお、家系資料に掲載された兄弟姉妹の情報と、本人の訃報などの報道で直接確認できる関係は区別して理解する必要があります。
2019年の日刊スポーツの訃報では、明さんの妻が喪主として記載されています。一方、子どもの有無や人数については、同記事に具体的な記述はありません。
【2019年1月22日に死去】享年74歳、倍賞明の現在は?
倍賞明さんは、2019年1月22日に亡くなりました。
享年74歳でした。
2019年1月25日、日刊スポーツとデイリースポーツが訃報を報道しています。
日刊スポーツによると、明さんの通夜は1月28日、葬儀・告別式は1月29日に東京都板橋区内で営まれました。
報道では、倍賞千恵子さんの弟であり、元日産自動車硬式野球部監督だったことも紹介されています。
倍賞明の死因は公表されている?2019年1月25日付の日刊スポーツおよびデイリースポーツの訃報では、死去した日と享年、葬儀の日程などが伝えられています。
一方、これらの報道には具体的な死因についての記載はありません。
そのため、特定の病気や事故などを死因として結びつけることはできません。
倍賞明の現在は?2026年現在、倍賞明さんはすでに亡くなっているため、現在の活動はありません。
生前最後の数年間について確認できる代表的な情報は、2016年の始球式と飲食店経営です。
2016年には72歳で始球式に登場し、野球ファンとの交流も続けていました。
2019年の訃報をもって、明さんの野球人生は幕を閉じました。
ただし、日大三高での甲子園準優勝や日本大学での大学日本一、社会人野球での選手・監督経験は、現在も記録として残っています。
【よくある質問】倍賞明に関するFAQ
Q1:倍賞明の読み方は何ですか?
A1:倍賞明は「ばいしょう・あきら」と読みます。元日産自動車野球部監督で、倍賞千恵子さんと倍賞美津子さんの兄弟です。
Q2:倍賞明は倍賞千恵子と倍賞美津子のどちらの兄ですか?
A2:倍賞千恵子さんにとっては弟、倍賞美津子さんにとっては兄です。両姉妹の実の兄弟にあたります。
Q3:倍賞明は何歳で亡くなりましたか?
A3:2019年1月22日に74歳で亡くなりました。日刊スポーツとデイリースポーツが同年1月25日に訃報を報じています。
Q4:倍賞明は日大三高で甲子園に出場したのですか?
A4:はい。1962年春の第34回選抜高校野球大会で準優勝しました。同年夏の全国高等学校野球選手権大会でもベスト8に進出しています。
Q5:倍賞明は日産自動車で何をしていましたか?
A5:選手としてプレーした後、1975年に日産自動車野球部の監督に就任しました。翌1976年には都市対抗野球大会への出場を果たしています。
Q6:倍賞明は2016年に始球式をしたのですか?
A6:はい。2016年6月6日、第65回全日本大学野球選手権記念大会の開幕日に神宮球場で始球式を務めました。1966年の日本大学優勝メンバーとして招かれたものです。
倍賞明さんは、倍賞千恵子さんの弟、倍賞美津子さんの兄として知られる一方、野球選手・監督としても実績を残した人物です。
その経歴を振り返ると、次の3つが特に重要です。
1. 高校野球での実績: 1962年、日大三高の中心打者として春のセンバツ準優勝、夏の甲子園ベスト8を経験。
2. 大学・社会人野球での活躍: 日本大学で1966年の大学日本一を経験し、鐘紡、日産自動車で選手として活動。1975年には日産自動車の監督に就任。
3. 晩年の野球とのつながり: 2016年に大学日本選手権の始球式を務め、2019年1月22日に74歳で死去。
倍賞明さんを理解する際に大切なのは、著名な女優姉妹の弟・兄という家族関係だけで人物像を判断しないことです。
1962年の甲子園準優勝、1966年の大学日本一、社会人野球での指導者経験という実績を見れば、明さん自身が長い野球人生を歩んだことが分かります。
また、2016年に50年ぶりに神宮球場へ戻ったエピソードは、現役時代の実績と、その後も続いた野球への愛着を象徴する出来事でした。
倍賞家の歴史を調べるうえでも、芸能界で活躍した姉妹だけでなく、野球界で独自の足跡を残した倍賞明さんの存在は欠かせません。
主な確認資料: 日刊スポーツ、デイリースポーツ、Full-Count、公益財団法人全日本大学野球連盟、日本大学野球部公式沿革、こだわり高校野球、閨閥学。