北天佑勝彦は、北海道室蘭市出身の元大相撲力士で、最高位は東大関。1960年8月8日に生まれ、2006年6月23日に45歳で亡くなった。
日本相撲協会の公式プロフィールに掲載されている基本情報は次のとおりだ。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 四股名 | 北天佑勝彦 |
| 読み方 | ほくてんゆう・かつひこ |
| 本名 | 千葉勝彦 |
| 生年月日 | 1960年8月8日 |
| 没年月日 | 2006年6月23日 |
| 出身地 | 北海道室蘭市 |
| 所属部屋 | 三保ヶ関部屋 |
| 最高位 | 東大関 |
| 身長 | 183cm |
| 体重 | 140kg(協会公式掲載値) |
| 得意技 | 突き・寄り |
| 年寄名跡 | 二十山 |
出典:日本相撲協会「歴代大関・北天佑勝彦」公式プロフィール。
本名は千葉勝彦。「北天佑」は師匠から贈られた四股名北天佑の本名は千葉勝彦。初土俵を踏んだ1976年3月場所では、本名に由来する「千葉」の四股名を使用していた。
1978年3月場所から北天佑に改名している。
ベースボール・マガジン社の相撲専門記事によると、この四股名には、北海道の大地に生まれ、天の助けに恵まれ、人の上に立つ偉大な力士になってほしいという師匠の願いが込められていた。
単なる名前の変更ではなく、将来を期待された若手力士に対する師匠の思いが表れた命名だった。
愛称「北海の白熊」はなぜ付いた?北天佑には「北海の白熊」という愛称があった。
日本相撲協会の2025年公開の相撲クイズでも、このニックネームが取り上げられている。
理由として挙げられているのは、次の特徴だ。
- 北海道出身であること
- 色白で大柄な体格
- 力強く豪快な取り口
- 端正な顔立ちと高い人気
特に、豪快な投げ技や吊り出しを繰り出す相撲は、観客に強い印象を残した。
白熊のような大きな体格と、土俵上での迫力を兼ね備えていたことが、この愛称に結び付いている。
【三保ヶ関部屋での経歴】室蘭から大相撲の世界へ

北天佑の相撲人生は、北海道室蘭市から始まった。
ベースボール・マガジン社が2019年に再掲載した相撲専門誌の連載記事には、入門までの経緯が詳しく記されている。
小学生時代から恵まれていた体格と運動能力北天佑は子どものころから、同級生より頭一つ大きな体格だったという。
中学1年と3年には室蘭市の柔道大会で優勝するなど、相撲以外の競技でも運動能力を発揮していた。
三保ヶ関親方(元増位山大志郎)との縁は、小学2年生のころにさかのぼる。
当時、北天佑の家族と親交があった力士の入門をきっかけに親方と出会い、将来は三保ヶ関部屋に入門するという話が生まれた。
本人は当初、室蘭市内の高校に進学し、建設業を営む父親の仕事を継ぐ将来も考えていた。しかし、家族との約束を受け止め、最終的に角界入りを決断する。
1976年3月、15歳で三保ヶ関部屋から初土俵を踏んだ。
横綱・北の湖の胸を借りて成長北天佑が入門した三保ヶ関部屋には、すでに横綱・北の湖をはじめとする実力者が所属していた。
当時の部屋は強豪力士が集まる環境であり、若い北天佑にとって稽古の水準は非常に高かった。
特に大きな影響を与えたのが、兄弟子の横綱・北の湖である。
相撲専門誌の回顧記事によると、北天佑は北の湖の稽古相手を務め、横綱の強さを間近で学んだ。
その経験は、単に体力を鍛えるだけではなかった。相手の圧力を受け止める力や、攻め続ける姿勢など、大関へ成長するための基礎を身につける機会になった。
また、幕下時代にはライバルの若島津(後の大関・若嶋津)の奮起にも刺激を受けたという。
当初は淡々と相撲を取っていた北天佑だったが、ライバルの姿を見て意識を変え、十両昇進を目指すようになった。
十両から幕内へスピード出世北天佑の出世は順調だった。
1980年3月場所では幕下で全勝優勝。続く1980年5月場所で新十両となり、同年11月場所には新入幕を果たした。
その後も小結、関脇と番付を上げ、1983年には幕内最高優勝を経験する。
若くして大関候補と期待された北天佑は、三保ヶ関部屋の次代を担う力士へと成長していった。
【1983年の大関昇進と幕内優勝2回】公式記録で見る全盛期
北天佑の競技人生で最大の転換点は、1983年だった。
同年5月場所で初めて幕内最高優勝を果たし、7月場所には大関へ昇進。22歳という若さで角界の上位に立った。
1983年5月場所で初優勝初優勝を達成したのは1983年5月場所。
東関脇の地位で14勝1敗という好成績を残し、幕内最高優勝を飾った。
その実績が評価され、同年7月場所から大関に昇進した。
当時の北天佑は、強烈な当たりと力強い寄り、そして投げ技を武器に上位陣と渡り合っていた。
初優勝から大関昇進までの流れは、若手力士としての成長を象徴する出来事だった。
1985年7月場所で2度目の幕内優勝2度目の幕内優勝は1985年7月場所。
東大関として13勝2敗の成績を挙げ、再び賜杯を手にした。
日本相撲協会の記録では、北天佑の幕内優勝は合計2回。大関在位は44場所に及んでいる。
単発の好成績に終わらず、長期間にわたって大関の地位を守った点も評価すべき実績だ。
北天佑の通算成績と主な受賞歴
日本相撲協会公式記録
645勝
通算勝利数
413敗
通算敗北数
2回
幕内優勝
44場所
大関在位
| 成績区分 | 記録 |
|---|---|
| 生涯戦歴 | 645勝413敗47休 |
| 幕内戦歴 | 513勝335敗44休 |
| 大関戦歴 | 378勝245敗29休 |
| 幕内優勝 | 2回 |
| 幕下優勝 | 1回 |
| 殊勲賞 | 2回 |
| 敢闘賞 | 4回 |
| 技能賞 | 1回 |
| 金星 | 3個 |
出典:日本相撲協会公式プロフィール。88場所の記録。
ここで注目したいのは、大関在位44場所という数字だ。
大関は昇進すること自体が難しい地位だが、その地位を長期間維持するには安定した成績が必要になる。
北天佑は1983年7月から1990年9月まで大関を務め、幕内上位で長く存在感を示した。
なお、相撲専門誌の1994年掲載プロフィールを再録した資料には、幕内休場数が52と記載されている。一方、日本相撲協会の現行公式プロフィールでは44休となっている。ここでは、通算成績と内訳ともに協会公式の掲載値を基準としている。
【年代別】北天佑の主な経歴・転換点| 年月 | 出来事 | 意義 |
|---|---|---|
| 1960年8月 | 北海道室蘭市に誕生 | 千葉勝彦として生まれる |
| 1976年3月 | 三保ヶ関部屋から初土俵 | 四股名は千葉 |
| 1978年3月 | 北天佑に改名 | 新しい四股名で活躍 |
| 1980年5月 | 新十両 | 関取に昇進 |
| 1980年11月 | 新入幕 | 幕内力士となる |
| 1981年7月 | 新小結 | 三役入り |
| 1983年5月 | 幕内初優勝 | 14勝1敗 |
| 1983年7月 | 大関昇進 | 22歳で昇進 |
| 1985年7月 | 幕内2回目の優勝 | 13勝2敗 |
| 1990年9月 | 現役引退 | 二十山親方を襲名 |
| 1994年6月 | 二十山部屋を創設 | 独立して後進を育成 |
| 2006年6月23日 | 死去 | 45歳 |
出典:日本相撲協会、ベースボール・マガジン社、大相撲の記録資料。
【1990年の引退後】二十山親方として部屋を創設
北天佑は1990年9月場所で現役を引退した。
引退したのは秋場所7日目。最後の番付も大関だった。
その後は年寄・二十山を襲名し、指導者として相撲界に残った。
二十山部屋を創設した経緯引退後の北天佑は、三保ヶ関部屋から独立する道を選んだ。
1994年6月1日に二十山部屋を創設。師匠として弟子の育成に取り組むようになる。
現役時代に横綱・北の湖の胸を借り、三保ヶ関親方の指導を受けた経験は、今度は自分が後進に伝える立場へと変わった。
二十山部屋は2006年6月まで存続した。
白露山を育てた指導者としての実績二十山部屋から幕内力士に成長した代表的な存在が、ロシア出身の白露山だ。
ベースボール・マガジン社のプロフィールにも、北天佑が白露山を育てたことが記されている。
現役時代の北天佑は自ら土俵で結果を残す力士だったが、引退後は弟子を関取へ育てる仕事に取り組んだ。
相撲部屋の師匠は、稽古をつけるだけではなく、力士の生活や精神面を含めて育成を担う。
北天佑にとって二十山部屋の創設は、現役時代とは異なる形で相撲界に貢献する新しい挑戦だった。
2006年の突然の訃報と部屋の終焉2006年6月23日、二十山親方は45歳で亡くなった。
この時点で二十山部屋には11人の弟子が在籍していた。スポーツ総合誌『Number』の当時の回顧記事でも、親方の死後に残された弟子たちに注目している。
師匠を失った弟子たちにとって、部屋の存続と今後の指導体制は大きな問題となった。
二十山部屋も親方の死去に伴い閉鎖され、独立した部屋としての歴史に幕を下ろした。
【妻・栄美さんとの結婚】家族と2006年の死去
北天佑の私生活で知られている人物が、妻の栄美さんだ。
相撲専門誌の回顧記事には、2人の出会いから結婚までの経緯が記されている。
妻の名前は栄美さん。1986年2月に結婚ベースボール・マガジン社が掲載した相撲専門誌の連載記事によると、栄美さんは、北天佑が幕下時代に苦しんでいたころ、精神的に支えた女性だった。
当時の北天佑は、ライバルに先を越されたことなどから自信を失い、苦しい時期を経験していた。
そんなときに励ました女性が、後に妻となる栄美さんだった。
2人は1986年2月に結婚している。
このエピソードは、2019年にベースボール・マガジン社が再掲載した、1994年の『VANVAN相撲界』の記事に記録されている。
妻・栄美さんの現在は?栄美さんについては、北天佑の妻として相撲専門誌や当時の報道に名前が登場している。
一方、2026年現在の本人の生活状況、仕事、居住地などについては、広く確認できる継続的な公的情報は限られている。
そのため、現在も二十山部屋の運営に関わっている、あるいは特定の仕事に就いているといった情報を事実として扱うことはできない。
確認できるのは、1986年の結婚と、2006年の北天佑の死去当時に妻として報道されたことだ。
北天佑はなぜ45歳で亡くなったのか?北天佑の死去は、相撲界に大きな衝撃を与えた。
2006年春場所中に体調不良を訴え、多発性脳梗塞で緊急入院。その後、腎臓がんも判明したと『Number』の当時の報道は伝えている。
治療に専念したものの、病状は悪化。2006年6月23日、東京都内の病院で亡くなった。死因は腎臓がんと報じられた。
享年45歳だった。
大関として44場所を務め、引退後も弟子を育てていた人物の突然の死は、本人の競技人生だけでなく、二十山部屋の将来にも影響を及ぼした。
2026年は、北天佑の没後20年に当たる。
【北天佑勝彦の現在】2026年に残る功績と相撲界への影響
「北天佑は現在どうしているのか」という疑問に対する答えは明確だ。
本人は2006年6月23日に45歳で亡くなっており、現在活動しているわけではない。
しかし、相撲界に残した記録や愛称は、没後20年となる2026年にも受け継がれている。
日本相撲協会の公式プロフィールに残る記録日本相撲協会は現在も北天佑を歴代大関の一人として掲載している。
本名、出身地、大関在位期間、優勝回数、通算戦績などが確認できる。
特に645勝413敗47休という生涯戦歴は、北天佑が長期間にわたって第一線で戦ったことを示す数字だ。
また、大関在位44場所という実績も、彼の競技人生を評価する重要な指標となっている。
現役力士の四股名にも受け継がれた「北海の白熊」興味深いのは、北天佑の愛称が後の力士の四股名にも影響していることだ。
2024年1月場所から、高橋優太は「白熊」という四股名に改名した。
二所ノ関親方(元横綱・稀勢の里)は、北天佑の「北海の白熊」という愛称を命名の由来の一つとして説明している。
白熊の体格や色白の肌に加え、北天佑のような力強い相撲を取ってほしいという期待も込められていた。
つまり、北天佑の名前は単に過去の大関として記録に残っているだけではない。現役世代の力士の目標としても語り継がれている。
【プロの結論】北天佑勝彦を評価するなら3つの実績に注目
北天佑の生涯を振り返る際、特に注目したいのは次の3点だ。
1. 大関在位44場所という安定感
幕内優勝2回だけを見ると、優勝回数の多い歴代大関と比較して控えめに感じる人もいるかもしれない。しかし、大関として44場所を務めた実績は、長期間にわたって上位の実力を維持した証拠だ。
2. 三保ヶ関部屋で培った相撲と指導者としての経験
横綱・北の湖の稽古相手を務めた経験は、北天佑の成長に大きな影響を与えた。引退後には二十山部屋を興し、白露山を育てるなど、次世代への継承にも取り組んだ。
3. 没後も続く相撲界での存在感
日本相撲協会の公式記録に加え、「北海の白熊」という愛称は後の力士の四股名にもつながった。現役時代の強さが、次の世代の力士にとっても一つの目標になっている。
北天佑を知るために資料を読むなら、日本相撲協会の公式プロフィールで数字を確認し、ベースボール・マガジン社の連載で当時の人間像や相撲観を補う方法が適している。
戦績だけでも、逸話だけでも見えてこない、力士としての実績と人間としての歩みを理解できるからだ。
【北天佑勝彦に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:北天佑勝彦の本名は何ですか?
A1:本名は千葉勝彦(ちば・かつひこ)です。1960年8月8日、北海道室蘭市生まれ。三保ヶ関部屋から1976年3月場所に初土俵を踏みました。
Q2:北天佑勝彦の没年月日はいつですか?
A2:2006年6月23日です。腎臓がんのため45歳で亡くなりました。2026年は没後20年に当たります。
Q3:北天佑の妻・栄美さんは現在どうしていますか?
A3:妻の名前は栄美さんで、1986年2月に結婚しています。2026年現在の生活状況や活動については、広く確認できる公的情報が限られており、詳細は公表されていません。
北天佑勝彦は、北海道室蘭市から三保ヶ関部屋に入門し、1983年に大関へ昇進した名力士だった。
本名は千葉勝彦。幕内優勝2回、通算645勝413敗47休、大関在位44場所という記録を残し、「北海の白熊」の愛称で多くの相撲ファンに親しまれた。
1990年の引退後は二十山親方として独立し、二十山部屋を創設。妻の栄美さんと家庭を築きながら、後進の育成にも力を注いだ。しかし、2006年6月23日に45歳で亡くなり、部屋も閉鎖された。
2026年現在、北天佑本人は故人だが、その戦績、指導者としての足跡、そして「北海の白熊」という愛称は相撲界に残っている。
大関としての強さだけでなく、師匠や兄弟子から受け継いだものを次の世代へ伝えようとした人生こそ、北天佑勝彦という力士を語るうえで忘れてはならない功績である。
参考資料- 日本相撲協会「歴代大関・北天佑勝彦」公式プロフィール
- ベースボール・マガジン社「名力士たちの『開眼』大関・北天佑勝彦編」
- 文藝春秋『Number』2006年8月掲載「志半ばにして逝った二十山親方を想う」
- 2006年6月の読売新聞・朝日新聞・北海道新聞などの訃報報道
- スポーツニッポン、2023年12月の「白熊」改名報道