ホーム スポーツ 永射保とは何者か?左殺しの投球術と通算606試合、2017年の訃報を徹底解説

永射保とは何者か?左殺しの投球術と通算606試合、2017年の訃報を徹底解説

高杉 葵 高杉 葵 • 更新: • 公開: • 読了約 23 分
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永射保(ながい・たもつ)氏は、1970年代から1990年までプロ野球で活躍した左腕投手です。広島東洋カープでプロ入りし、太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズ、西武ライオンズ、横浜大洋ホエールズ、福岡ダイエーホークスと複数の球団でプレーしました。通算成績は606試合登板、44勝37敗21セーブ、防御率4.11。独特の低い投球フォームを武器に、強力な左打者を抑える「左殺し」として知られました。

また、永射氏にはピンク・レディーの大ヒット曲「サウスポー」のモデルになったという逸話もあります。2017年6月24日に63歳で亡くなりましたが、その投球スタイルと野球界に残した足跡は、2026年現在も往年のプロ野球を語るうえで欠かせないものです。読み方やプロフィール、球団遍歴、通算記録、死因、モデル説の真相まで、当時の報道や日本野球機構の公式記録をもとに振り返ります。

【永射保とは?読み方・プロフィールと野球人生の原点】

永射保

永射保氏の名前は「ながい・たもつ」と読みます。現役時代は、一般的な左腕投手とは異なる低い腕の位置から投げる独特のフォームで知られました。

日本野球機構(NPB)の選手プロフィールによると、生年月日は1953年10月3日。鹿児島県出身で、指宿商業高校を経て1971年のドラフト会議で広島東洋カープから3位指名を受けました。

永射保の基本プロフィール
  • 名前:永射保(ながい・たもつ)
  • 生年月日:1953年10月3日
  • 没年月日:2017年6月24日
  • 享年:63歳
  • 出身地:鹿児島県
  • 出身高校:指宿商業高校
  • 投打:左投左打
  • 身長:172cm
  • 体重:74kg
  • ドラフト:1971年・広島東洋カープ3位
  • プロ在籍期間:1972~1990年
  • 主なポジション:投手

特筆すべきなのは、プロ入り当初から現在知られているアンダースローに近いフォームだったわけではないことです。

指宿商業高校時代の永射氏は、力のあるストレートと切れのあるカーブを武器にしたオーバースローの投手でした。しかし、プロの世界では自分の持ち味を生かし、打者にとって打ちにくい投手へ変わる必要がありました。

身長172cmという体格的な条件もあり、広島入団後に投球フォームを大きく変更。さらに移籍後も研究と改良を続け、独自の低い腕の位置から投げるスタイルを完成させていきました。

つまり、永射氏の最大の特徴は、生まれ持った才能だけではありません。プロで生き残るために、自らの投球スタイルを根本から作り直した適応力にもありました。

【広島から西武・大洋・ダイエーへ!19年間の経歴と球団遍歴】

永射保氏のプロ野球人生は、広島東洋カープで始まりました。その後、パ・リーグの球団を中心に移籍を重ね、最終的には福岡ダイエーホークスで現役生活を終えています。

特に大きな転機となったのが、1974年の太平洋クラブライオンズへの移籍です。ここから投球フォームが固まり始め、左打者を抑える専門性の高い投手として評価を高めていきました。

永射保の年代別キャリア一覧
時期 所属球団 主な出来事・特徴
1971年 広島東洋カープ ドラフト3位で指名される
1972~1973年 広島東洋カープ プロ入り。投球フォームの改良に取り組む
1974~1976年 太平洋クラブライオンズ パ・リーグへ移籍。低い腕の位置を追求する
1977~1978年 クラウンライターライオンズ 登板機会を重ね、変則左腕として存在感を高める
1979~1986年 西武ライオンズ 左の強打者を抑える救援投手として活躍。6年連続40試合以上に登板
1987~1988年 横浜大洋ホエールズ セ・リーグへ移籍し、救援投手としてプレー
1989~1990年 福岡ダイエーホークス 福岡に戻り、1990年限りで現役引退

※球団名は当時の名称を基本として記載。1975年はNPB公式の一軍年度別投手成績に登板記録がありません。

広島時代:プロ入りとフォーム変更への挑戦

1972年、永射氏は広島東洋カープで一軍デビューを果たしました。しかし、当初から大きな実績を残したわけではありません。

プロの打者に対抗するため、入団後のオフに投球フォームを変更。腕を下げることで、自分ならではの投球スタイルを模索しました。

その後、1974年に太平洋クラブライオンズへ移籍。ここから徐々に投手としての個性が明確になっていきます。

西武時代:左殺しとして評価を確立

永射氏が最も強い印象を残したのは、西武ライオンズ時代です。

1979年から1984年まで6年連続で40試合以上に登板。1979年には63試合、1980年には56試合、1981年には61試合に登板するなど、ブルペンを支える存在となりました。

1982年に広岡達朗監督が就任してからは、先発と救援の役割分担が進み、永射氏は左の強打者を抑えるリリーフ投手として重要な役割を担いました。

1982年、1983年、1985年の西武のリーグ優勝にも貢献。チームの勝利を左右する場面で登板する投手として、その価値を高めました。

大洋・ダイエー時代:経験を重ねて現役引退

1987年には横浜大洋ホエールズへ移籍。1988年までプレーした後、1989年に福岡ダイエーホークスへ移りました。

ダイエーでは1989年に39試合に登板し、防御率3.07を記録しています。1990年は8試合に登板し、同年限りで現役を引退しました。

広島から始まり、太平洋、クラウン、西武、大洋、ダイエーと渡り歩いた19年間。永射氏のキャリアは、球団ごとに求められる役割を変えながら、独自の投球スタイルを貫いた野球人生でした。

【永射保の通算成績は606試合!44勝37敗21セーブの実力】

永射保氏の通算成績は、NPB公式記録で606試合登板、44勝37敗21セーブ、防御率4.11です。

投球回は906イニング、奪三振は654個。19年間にわたって一軍のマウンドに立ち続けました。

NPB公式記録で見る通算成績
  • 登板:606試合
  • 勝利:44勝
  • 敗戦:37敗
  • セーブ:21セーブ
  • 防御率:4.11
  • 投球回:906回
  • 奪三振:654個
  • 完投:9回
  • 勝率:.543

出典は日本野球機構の個人年度別成績です。2025年シーズン終了時点の公式記録でも、この通算成績が掲載されています。

特に注目したいのは登板数と救援での存在感

永射氏の記録を見るとき、勝利数だけで評価するのは適切ではありません。

44勝という数字は、先発投手として年間10勝、15勝を目指すタイプの投手とは異なる役割を担っていたことを考慮する必要があります。

永射氏の持ち味は、相手チームの左の強打者が打席に入った場面で登板し、重要なアウトを奪うことでした。

1試合の中で登板する投手が細分化されていく過程で、特定の打者に強い投手を投入するワンポイントリリーフという戦術が重要になりました。永射氏は、その専門性を確立した先駆的な左腕の一人です。

数字だけでは分からない1977年の実績

永射氏は、最初からワンポイント専門だったわけではありません。

日本野球機構の年度別記録によれば、1977年にはクラウンライターライオンズで49試合に登板し、9勝10敗6セーブを記録。投球回は199回2/3に達しています。

この数字からも、当時は長いイニングを投げる役割も担っていたことが分かります。

その後、チームの投手運用が変化する中で、左打者対策に特化したリリーフ投手としての存在感を高めていきました。

1983年には防御率2.41を記録。通算防御率だけでは見えてこない、特定の場面での強さが永射氏の評価につながっています。

【永射保が「左殺し」と呼ばれた理由!左サイドハンドの秘密】

永射保氏の代名詞といえば「左殺し」です。

これは、左打者に対して圧倒的な存在感を示したことから生まれた呼び名です。単に左投げだったからではありません。腕を極端に低くした投球フォームと、打者の視界を惑わせる球の軌道が組み合わさっていました。

オーバースローから独特の低いフォームへ

永射氏は1972年の広島入団時にはオーバースローでしたが、プロ入り後にサイドハンドへ転向しました。

さらに腕の位置を下げ、アンダースローに近い低いフォームを追求します。

参考にした投手は、阪急ブレーブスの名投手・山田久志氏でした。

右投げの山田氏の投球フォームを鏡に映し、左投げの自分に置き換えて研究したというエピソードが、集英社のスポーツメディア「Sportiva」のインタビュー記事で紹介されています。

当時、左のアンダースローは非常に珍しい投球スタイルでした。永射氏自身も、その常識に挑戦する意識を持っていたといいます。

「どうせやるならもっと下げてやろう。」

これはSportivaが2017年7月に掲載した永射氏の取材記事で紹介された言葉です。既存の投球フォームを模倣するだけでなく、自分に合ったスタイルを徹底的に追求した姿勢が伝わってきます。

ストレートとカーブの組み合わせが打者を苦しめた

永射氏の投球を特徴づけたのは、球種の多さではありませんでした。

Sportivaの取材記事によれば、主な武器はストレートとカーブの2種類です。

低い位置から浮き上がって見えるストレートと、左打者の背中側から視界の外へ消えていくように感じられるカーブ。この組み合わせによって、打者は通常とは異なるタイミングと距離感でボールを捉える必要がありました。

永射氏が重視していたのは、単純に空振りを取ることだけではありません。

打者の腰を引かせ、十分に踏み込めない状態をつくることが重要だったのです。

本人は取材の中で、打者の腰が一瞬でも引ければ、ボールが遠くに見え、芯で捉えられても長打になりにくいという考えを語っています。

門田博光・レロン・リー・トニー・ソレイタも苦しめた

永射氏の実力を示すエピソードとして、当時のパ・リーグを代表する左打者との対戦が挙げられます。

  • 門田博光:1989年のオリックス戦で、永射氏との対戦を避けるため、自ら監督に交代を申し入れたという逸話が残る。
  • レロン・リー:永射氏を苦手とし、通常の左打席ではなく右打席に立ったこともあった。
  • トニー・ソレイタ:日本ハムの強打者で、永射氏が特に得意とした対戦相手の一人として知られる。

特に門田博光氏のエピソードは象徴的です。1989年のオリックス戦で、門田氏が自ら上田利治監督に交代を申し入れ、右打者が代打として送られたとSportivaは伝えています。

また、レロン・リー氏は永射氏との対戦で右打席に立った経験があったと、本人の回想として紹介されています。

こうした逸話が示しているのは、永射氏が単に珍しいフォームの投手だったのではなく、相手の主力打者に対して心理的なプレッシャーを与えられる存在だったということです。

左殺しの本質は球速よりも打者との駆け引き

永射氏の投球術は、球速や奪三振数だけでは測れません。

低いリリースポイント、独特の角度、カーブの軌道、打者の腰を引かせる配球。これらが一体となって、左打者にとって攻略しにくい投手を作り上げていました。

プロ野球では、すべての打者に対して同じように強い投手だけが価値を持つわけではありません。特定の強打者を確実に抑える能力も、チームにとって大きな武器になります。

永射氏は、その専門性を体現した投手だったのです。

【ピンク・レディー「サウスポー」のモデル説は本当?水原勇気との関係】

永射保氏を語る際、野球ファン以外にも知られているのが、ピンク・レディーの楽曲「サウスポー」との関係です。

1978年に大ヒットしたこの曲に登場する左投手のモデルが永射氏だったという説があります。加えて、漫画家・水島新司氏の作品『野球狂の詩』に登場する女性投手、水原勇気の投球フォームにも関係していたと伝えられています。

「サウスポー」のモデルになったという本人の証言

Sportivaの2017年7月5日掲載の記事では、永射氏がピンク・レディーの「サウスポー」に関して、自身がモデルになったと語ったことが紹介されています。

加えて、永射氏は次のようなエピソードも明かしています。

「だからオフに、ピンク・レディーのふたりと舞台に並んで『サウスポー』を歌ったんですよ」

この証言から、永射氏とピンク・レディーの間に、楽曲にまつわる交流があったことがうかがえます。

ただし、ここには押さえておきたい点があります。

週刊ベースボールONLINEが2022年に掲載した永射氏の特集では、水原勇気のフォームと永射氏の関係を紹介する一方、ピンク・レディーの「サウスポー」については、モデルだったという説は定かではないと留保しています。

つまり、永射氏本人がモデルだったと語っていたことは取材記事に残されていますが、楽曲の制作側が公式にモデルとして確定したという情報とは区別する必要があります。

2026年現在の整理としては、永射氏が「サウスポー」のモデルとして語られてきた有力な逸話であり、本人証言も存在する一方、制作背景については断定できない部分も残る、という位置づけが適切です。

水島新司の『野球狂の詩』と水原勇気への影響

もう一つの興味深い関係が、漫画『野球狂の詩』です。

水島新司氏が描いたこの作品には、女性投手・水原勇気が登場します。女性のプロ野球選手という設定に加え、左のアンダースローという独特の投球フォームが大きな特徴でした。

Sportivaの記事によれば、水島氏は永射氏の投球フォームを観察するため、数日間にわたって密着したことがあったといいます。

永射氏は取材の中で、自分のフォームなどを見ていたことを振り返っています。その後、男性投手ではなく女性投手という設定になったというエピソードも紹介されました。

現実のプロ野球選手のフォームが漫画のキャラクターに影響を与えたという点で、永射氏はスポーツと漫画文化をつなぐ存在でもありました。

モデル説をめぐる関係者と事実の整理
  • 永射保:「サウスポー」のモデルになったと取材で語っている。
  • ピンク・レディー:1978年のヒット曲「サウスポー」を歌った女性デュオ。
  • 水島新司:『野球狂の詩』の作者。永射氏の投球フォームを観察したエピソードがある。
  • 水原勇気:『野球狂の詩』に登場する左投げの女性投手。
  • 山田久志:永射氏が自身の投球フォームを研究する際に参考にした阪急の名投手。

永射氏の存在は、単に野球の記録にとどまらず、1970年代の歌謡曲や漫画の世界にもつながる興味深いものだったといえます。

【永射保の死因は?2017年6月24日の訃報と引退後の現在】

永射保氏は2017年6月24日、福岡県久留米市内の病院で亡くなりました。63歳でした。

日刊スポーツやデイリースポーツなどの報道によると、死因はがんです。Sportivaの追悼記事では肝臓がんと伝えられています。

永射保の訃報と死因
  • 亡くなった日:2017年6月24日
  • 享年:63歳
  • 亡くなった場所:福岡県久留米市内の病院
  • 死因:がん(Sportivaでは肝臓がんと報道)

日刊スポーツの2017年6月24日の報道では、永射氏は近年体調を崩し、入院生活を送っていたと伝えられました。

プロ野球の第一線を退いた後も、永射氏は野球との関わりを続けていました。単に現役時代の実績を振り返られるだけの人物ではなく、引退後も地域の野球界に貢献していたのです。

引退後は野球指導や飲食店経営にも携わった

1990年の現役引退後、永射氏は野球に関わる仕事を続けました。

日刊スポーツの報道によれば、中国プロ野球や少年野球の指導に携わったほか、福岡県内で飲食店を経営していました。

Sportivaの追悼記事では、北九州で居酒屋「野球狂の詩」やスナック「サウスポー」を営んでいたことも紹介されています。

現役時代の野球経験を生かしながら、地元で新たな生活を築いていたことが分かります。

亡くなる直前まで少年野球の普及活動に参加

永射氏の引退後の活動を知るうえで、特に重要なのが日本プロ野球OBクラブの会報に掲載された記録です。

同会報によれば、永射氏は2010年から福岡県の副幹事、2012年からは福岡県代表幹事を務めていました。

さらに2017年5月14日には、第23回ダイワハウス全国少年少女野球教室の福岡県会場で、病を押して指導に当たっています。

亡くなったのは、その約1か月半後の6月24日でした。

この記録からは、晩年まで少年野球の普及活動に力を注いでいた様子がうかがえます。現役時代に培った技術や経験を、次の世代へ伝えようとしていたことも、永射氏の野球人生を語るうえで見逃せない部分です。

2026年現在、永射保はどうしている?

2026年11月現在、永射保氏はすでに亡くなっており、現役復帰や現在の活動という意味での近況はありません。

現在の永射氏を知る手掛かりは、NPB公式の選手成績、当時の報道、引退後の指導活動の記録、そして野球専門メディアに残された証言です。

特に注目したいのは、現在の野球で一般的になった救援投手の専門分化を、永射氏が早い時期から体現していたことです。

左打者に強い投手を重要な局面で投入するという考え方は、現代のブルペン運用にも通じるものがあります。永射氏の名前が今も野球ファンの間で語られるのは、通算606試合という数字だけでなく、独自の役割を確立した投手だったからです。

【プロの結論】永射保が日本プロ野球に残した本当の功績

永射保氏の野球人生を評価する際には、通算勝利数や防御率だけでなく、当時のチーム戦術や投手起用の変化を考える必要があります。

勝利数よりも特定の打者を抑える能力が価値だった

44勝37敗21セーブという成績だけを見れば、突出した勝利数を持つエース投手とは異なります。

しかし、永射氏の役割は先発投手として試合を長く投げることだけではありませんでした。相手の主力打者を打ち取るために登板し、試合の流れを変えることが求められていました。

ワンポイントリリーフという役割は、登板数や勝利数だけでは評価しにくいポジションです。重要なのは、誰を相手に、どの場面で、どのような結果を残したかという点です。

独自のフォームは長年の鍛錬によって完成した

永射氏は、左のアンダースローに近いフォームを単純に真似すれば成功するとは考えていませんでした。

Sportivaの記事では、山田久志氏のフォームを研究したことに加え、下半身を鍛えることの重要性についても本人が語っています。

中学時代から走り込みを続け、投球フォームの土台となる下半身の強化を重視していたというエピソードも紹介されています。

フォームという外見だけを模倣しても、同じ投球は再現できません。独特の投球スタイルを支えていたのは、地道な身体づくりと技術研究だったのです。

現代のプロ野球にも通じる専門性

現在のプロ野球では、先発、中継ぎ、セットアッパー、抑えなど、投手の役割が細分化されています。

永射氏が活躍した時代は、現在ほど役割分担が定着していませんでした。その中で左打者に強いという明確な武器を持ち、チームに欠かせない存在になったことには大きな意味があります。

特定の状況で最大限の力を発揮できる選手を起用するという考え方は、現代のデータ分析を重視した野球にもつながっています。

永射氏は、単に変則フォームで話題になった投手ではありません。自分の強みを理解し、それをチームの勝利に結び付けた専門職型の投手だったのです。

【永射保に関するよくある質問(FAQ)】

Q1:永射保の読み方は何ですか?
A1:永射保は「ながい・たもつ」と読みます。1953年10月3日生まれの鹿児島県出身で、左投左打の元プロ野球投手です。

Q2:永射保の通算成績はどれくらいですか?
A2:NPB公式記録では606試合登板、44勝37敗21セーブ、防御率4.11です。投球回は906回、奪三振は654個を記録しています。

Q3:永射保の死因と亡くなった日はいつですか?
A3:2017年6月24日に福岡県久留米市内の病院で亡くなりました。享年63歳です。死因はがんで、Sportivaの報道では肝臓がんとされています。

永射保氏は、1972年に広島東洋カープでプロ入りし、太平洋クラブ、クラウンライター、西武、大洋、ダイエーで19年間にわたり活躍した左腕投手です。

通算606試合登板、44勝37敗21セーブという記録に加え、独特の低い投球フォームで左の強打者を封じ込めた実績が大きな特徴でした。

ピンク・レディーの「サウスポー」のモデルになったという逸話や、『野球狂の詩』の水原勇気のフォームとの関係も、永射氏の個性を象徴するエピソードです。

2017年6月24日に63歳で亡くなりましたが、引退後も少年野球の指導に携わり、亡くなる直前まで野球界への貢献を続けていました。

永射保氏の本当の功績は、606試合という記録だけではありません。独自の技術を磨き、左打者を抑えるという明確な役割を確立し、チームの勝利に貢献したことです。 その投球スタイルと専門性は、現在のプロ野球における救援投手の役割を考えるうえでも、振り返る価値のあるものです。

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高杉 葵

アイドル・グラビア担当。所属事務所の公式発表を一次情報とし、憶測は書きません。

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