ドリーが日本で特別な人気を獲得した理由は、NWA世界王者という肩書だけではない。日本のプロレスファンが重視していた技術、試合運び、対戦相手との物語を、長いキャリアを通じて体現していたからだ。
その人気を決定づけた存在が、弟のテリー・ファンクだった。
兄ドリーと弟テリー、対照的な個性が生んだ名タッグザ・ファンクスは、ドリーとテリーによる兄弟タッグチームである。
2人は同じファンク家に生まれ、父ドリー・ファンク・シニアの影響を受けてプロレスラーになった。しかし、リング上での個性は異なっていた。
- ドリー・ファンク・ジュニア: 技術と組み立てを重視する正統派。関節技やレスリング技術を駆使する。
- テリー・ファンク: 感情表現が豊かで、激しい攻防や豪快なファイトを得意とする。
この対照的な個性が、兄弟タッグとしての魅力を生み出した。
日本では、ザ・ファンクスは外国人レスラーという枠を超え、全日本プロレスを代表する人気チームの一つとなった。
ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田との名勝負全日本プロレスの歴史を振り返るうえで、ザ・ファンクスとジャイアント馬場、ジャンボ鶴田の関係は欠かせない。
1977年の世界オープンタッグ選手権では、ドリーとテリーが優勝。翌1978年の世界最強タッグ決定リーグ戦では馬場・鶴田組が優勝し、ファンクスは準優勝となった。
1979年にはファンクスが優勝し、1982年にも再び優勝を果たしている。
この対戦構図は、外国人の実力派チームと日本のトップレスラーが競い合う全日本プロレスの黄金期を象徴している。
加えて、1983年にはドリーが馬場と組んで世界最強タッグ決定リーグ戦に出場。1984年にはジャンボ鶴田・天龍源一郎組が優勝しており、時代を超えた選手同士の競争と交流が続いていた。
ドリーは単にテリーの兄として活躍したのではない。シングルでもタッグでも、日本のトップ選手と渡り合える実績を持っていた。
日本で支持された3つの理由1.NWA世界王者としての圧倒的な信頼感
NWA世界ヘビー級王者として日本にやって来たドリーには、世界のトップレスラーとしての格があった。アントニオ猪木やジャイアント馬場とのタイトルマッチは、その実力を日本の観客に印象づけた。
2.技術を重視する試合スタイル
派手な演出だけに頼らず、関節技やグラウンドでの攻防を重視するスタイルは、日本のプロレスファンが好む競技性とも相性がよかった。
3.長年にわたる日本との関係
1969年の初来日から、全日本プロレスへの参戦、後年の復帰まで、日本との関係は一時的なものではなかった。日本のファンにとって、ドリーは何度もリングで見てきた親しみ深い存在だった。
この3点が重なったことが、ドリーが日本で長く愛された大きな理由だ。
【必殺技の秘密】スピニング・トーホールドとテキサス・クローバーリーフ

ドリーの代名詞として知られる技が、スピニング・トーホールドだ。
相手の脚を抱え、回転を加えながら足首や膝に圧力をかける関節技である。ファンク兄弟の試合を象徴する技として、日本のプロレスファンにも広く知られている。
スピニング・トーホールドは誰が考案した?実は、この技をドリーが最初に発明したという説明は正確ではない。
WWEの技解説記事では、1950年代のマットレスリング選手ウォルター・パーマーが考案者として挙げられることが多いと紹介されている。
そのうえで、ドリー・ファンク・シニアと息子のドリー、テリーがこの技を自分たちの代名詞として定着させたと説明している。
1969年にジン・キニスキーを破ってNWA世界王座を獲得した際にも、この技が勝負の決め手となった。
テキサス・クローバーリーフも代表的な技もう一つの代表的な技が、テキサス・クローバーリーフだ。
WWEはドリーをこの技の考案者として紹介している。相手の脚を絡めて制する関節技で、彼の技術派レスラーとしての個性を象徴する技でもある。
ドリーの魅力は、単に大技で観客を驚かせることではなかった。技の入り方、相手との位置関係、試合の流れを意識した組み立てにあった。
その技術は、後進のレスラーを育てる際にも重要な基礎となった。
【WWE殿堂入り2009年】Funking Conservatoryと後進育成の功績
ドリーのキャリアを評価する際、リング上の実績と同じくらい重要なのが、レスラーの育成に関わったことだ。
2009年、ドリーとテリーは兄弟そろってWWE殿堂入りを果たした。長年のタッグ活動と個人としての功績が、世界最大級のプロレス団体から認められた形となった。
WWEの公式紹介によると、2人は2009年の殿堂入りを果たし、ドリーは2009年以前にも長年にわたって米国と日本で活動していた。
WrestleMania 2にも出場1986年のWrestleMania 2では、ザ・ファンクスとして出場。
ティト・サンタナ、ジャンクヤード・ドッグ組と対戦し、勝利を収めた。
日本での活動だけでなく、米国の大舞台でも兄弟タッグとして存在感を示していたことが分かる。
Funking Conservatoryとは?ドリーが晩年まで力を注いだ活動の一つが、米国フロリダ州オカラを拠点とするプロレス道場「Funking Conservatory」だ。
妻マーティとともに運営し、プロレスの基礎技術や試合の組み立てを後進に伝えていた。
WWEが紹介する育成に関わった選手には、次のような名前がある。
- カート・アングル
- エッジ
- クリスチャン
- ハーディー・ボーイズ
- マーク・ヘンリー
- ミッキー・ジェームス
これらの選手は、その後のWWEやプロレス界を代表する存在となった。
ドリーの功績は、自分がチャンピオンになったことだけではない。次の世代が世界的なスターになるための基礎を教えたことにもある。
2009年の殿堂入りが示すものWWE殿堂入りは、単なる過去のタイトル獲得者への表彰ではない。
ドリーの場合、次の3つの功績が重なっている。
1. NWA世界王者としての長期政権。
2. ザ・ファンクスとしての日米両国での活躍。
3. Funking Conservatoryを通じた後進育成。
現役時代の実績と、引退後も続いた業界への貢献。その両方がドリーの評価を支えている。
【引退試合と最後の試合】2008年の引退宣言から2024年のリング復帰まで
ドリーのキャリアを調べると、2008年と2024年という2つの日付が登場する。
ここは混同されやすいポイントだ。
2008年3月1日、全日本プロレスで引退試合2008年3月1日、東京・両国国技館でドリーの日本引退試合が開催された。
対戦カードは次の通り。
- ドリー・ファンク・ジュニア
- 西村修
対戦相手は天龍源一郎、渕正信だった。
この試合は、ドリー本人も最後の試合として告知していた。日本で長年応援してきたファンに感謝を伝える意味合いの強い大会だった。
しかし、2008年を最後に完全にリングを去ったわけではなかった。
2013年以降もプロレス界で活動ドリーは2013年に全日本プロレスへ復帰し、テリーとのタッグマッチにも出場した。
その後も2014年、2015年、2017年などに日本のリングへ登場。2018年には東京愚連隊の大会で西村修とのエキシビションマッチにも出場している。
2008年の引退試合は、あくまで当時の引退を記念する試合だったということだ。
2024年8月24日、83歳で最後の試合ドリーの最後の確認できる試合出場は、2024年8月24日。
神奈川県川崎市の富士通スタジアム川崎で開催された、テリー・ファンク追悼大会とアツシ・オニタのデビュー50周年記念大会だった。
試合形式は「Double Hell Current Explosion Death Match」。
ドリーは西村修と組み、大仁田厚、雷神矢口組と対戦した。
試合はドリー・西村組が勝利。最後はドリーの代名詞であるスピニング・トーホールドで雷神矢口からギブアップを奪った。ドリー本人の公式サイトも、この試合について83歳での勝利として記録している。
この試合の意味は大きい。
2008年に日本で引退試合を行いながら、その後もリングに戻り、2024年には83歳で試合に出場した。
しかも、最後に勝利を決めた技は、長年の代名詞だったスピニング・トーホールドだった。
現役生活の最後を象徴するような試合となった。
【プロの結論】ドリー・ファンク・ジュニアがプロレス史に残した本当の価値
ドリー・ファンク・ジュニアの生涯を振り返ると、評価すべき功績は一つではない。
NWA世界ヘビー級王座を4年3カ月保持したチャンピオンとしての実績。弟テリーとのザ・ファンクスとして日本のプロレスを盛り上げた功績。そしてFunking Conservatoryを通じて次世代を育てた教育者としての側面がある。
特に注目したいのは、ドリーのキャリアが「選手としての成功」だけで完結していないことだ。
プロレス界では、長期政権を築いたチャンピオンは数多く存在する。しかし、自身の技術や経験を後進に伝え、その教えを受けた選手が次の時代を担う存在になることは、また別の価値を持つ。
ドリーは、その両方を実現した人物だった。
日本での人気についても、単に外国人レスラーとして珍しかったからではない。馬場、猪木、鶴田ら日本のトップ選手と対戦し、全日本プロレスの歴史に深く関わり続けたことが大きい。
そして2024年、83歳でリングに立った最後の試合は、長年にわたるプロレスへの情熱を象徴していた。
85歳で迎えた2026年の死去によって、その長い歩みは幕を閉じた。しかし、ザ・ファンクスの試合、NWA王者としての記録、そして彼が育てたレスラーたちの活躍は、今後もプロレス史の中で語り継がれていく。
【ドリー・ファンク・ジュニアに関するよくある質問(FAQ)】
Q1:ドリー・ファンク・ジュニアはいつ亡くなった?享年は何歳?
A1:2026年8月4日(米国現地時間)に亡くなった。享年85歳。日本では8月5日に訃報が伝えられた。
Q2:ドリー・ファンク・ジュニアの死因は何だった?
A2:具体的な死因や病名は公表されていない。妻マーティ・ファンクによると、ホスピスケアを受けている最中に亡くなった。
Q3:NWA世界ヘビー級王座は何年間保持していた?
A3:1969年2月11日にジン・キニスキーを破って獲得し、1973年5月24日まで保持した。期間は1,563日、約4年3カ月で、歴代でもルー・テーズに次ぐ長期政権として知られる。
Q4:ドリー・ファンク・ジュニアの本当の引退試合はいつ?
A4:2008年3月1日に全日本プロレスで日本引退試合を行ったが、その後も復帰した。最後の確認できる試合出場は2024年8月24日で、83歳で大仁田厚組と対戦して勝利した。
Q5:テリー・ファンクとはどのような関係?
A5:テリー・ファンクはドリーの弟。2人はザ・ファンクスとして兄弟タッグを組み、全日本プロレスを中心に日本でも高い人気を獲得した。テリーは2023年8月に79歳で亡くなっている。
Q6:WWE殿堂入りは何年?
A6:2009年。弟テリーとともにWWE殿堂入りを果たした。
Q7:ドリー・ファンク・ジュニアは誰を育てた?
A7:Funking Conservatoryでの育成に関わり、カート・アングル、エッジ、クリスチャン、ハーディー・ボーイズ、マーク・ヘンリー、ミッキー・ジェームスらの育成に貢献した。
ドリー・ファンク・ジュニアは、2026年8月4日に85歳で亡くなった。
そのキャリアは、NWA世界ヘビー級王者としての長期政権、弟テリーとのザ・ファンクス、全日本プロレスでの数々の名勝負、2009年のWWE殿堂入り、そして後進育成まで幅広い。
特に日本との関係は深く、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎らと築いた歴史は、日本のプロレス黄金期を振り返るうえで欠かせない。
2008年の引退試合を経てもリングに戻り、2024年には83歳で最後の試合に出場したことも、彼のプロレスへの情熱を物語っている。
ドリー・ファンク・ジュニアは、偉大なチャンピオンであると同時に、プロレスの技術と精神を次世代へつないだ教育者だった。
その功績は、ザ・ファンクスの名勝負と、彼から学んだレスラーたちの中に生き続けている。